あるいじめられっ子の告白です。彼はある日、次のような遺書をしたためました。
人生において幸せになることができず、日々そのことが明確になっていくとしたら、消えるしかない。ぼくはそうすることに決めた。何とかなると考えて生き続ける人もいるだろう。しかし何とかなんてならない。
学校に行って、いい人生を送るために勉強しろと言われた。でもそれで得られるのは、いい車と、いい家と、きれいな妻。所詮下らないものだ。
学校でぼくが学んだ唯一のことは、ぼくは敗者だということだ。最初の頃はぼくも流行について行こうとしたし、友だちを作ろうと努力した。人を人としてではなく、ステータスシンボルとしてしか見られないようなやつらに合わせていた。
でもぼくは目が覚めた!そこにあるように見えている世界は実際には存在せず、それは主にメディアにより作られた幻想だということに気がついた。
ぼくは18年間の人生で、人は集団に属さなければ、社会に合わせなければ幸せになれないということを学んだ。しかしぼくにそれはできなかったし、したくなかった。ぼくは自由だ!誰もぼくの人生に干渉できないし、そうしたやつらは報いを受けることになる!政治家にそれを禁じる権利はない。腰に武器をぶら下げた警官に、ぼくの武器を奪う権利はない。
一体何のためなのか?何のために働かなければいけないのか?奴隷のように働くのは、65歳で定年して、その5年後に死ぬためか?下らないと分かっていることを、どうして努力して達成しなければならないのか?遅かれ早かれ死ぬというのに。
人生に意味を与える方法は、ぼくには一つしか残されてない。そしてぼくは、過去の誰とも違う方法でそれを達成する!もしかしたらぼくの人生はまったく違う道を辿っていたかもしれない。でもこの社会には、個人主義者が生きていく余地はもうないのだ。ぼくの言う個人主義者とは、自分で考えることができる本当の個人主義者であり、自分は選ばれた存在だと考えるバカのことではない!
戦いを始めたのはお前たちだ。ぼくではない。ぼくの行動は、ぼくにぼくであることを許さなかったお前たちの世界の帰結である。お前たちはぼくを笑いものにした。今ぼくは同じ事をお前たちにする。ただぼくのセンスはお前たちとはまるで違っていたということだ!
1994年から2003年、2004年頃まで、ぼくは友だちを作り、楽しむことを目指していた。1998年に中学校に入ると、服、友人、携帯と、ステータスシンボルのことばかり考えていた。そしてぼくは目覚めた。ぼくはそれまでの人生を通じて他人の笑いものであり、みんなからバカにされていたことに気がついたのだ。そしてぼくは復讐を誓った。
この復讐は、血を凍らせるほどに残酷に、かつ徹底して実行される。死ぬ前に、お前たちに忘れることのできない教訓を与えてやるのだ!法と宗教という偽名のもとに、何人も個の人生に介入することは許されないということを!
<参考ページ>
このような遺書を書いたゼバスチアン・ボッセ君は、は今月20日の朝、母校を訪れて復讐を実行しました。
悪いのは誰なのでしょうか?
社会?教師?いじめっ子?インターネット?ビデオゲーム?彼自身?彼の狂気?
もっともですね。ちなみに彼は、関係ない人を攻撃した理由をこんな風に述べています。
1.ぼくの標的は特定の人物ではなく、学校すべてだ。学校にいるもので無罪な者はいない!何者もだ!彼らの頭の中には、卒業生たちと同じプログラムがつまっている。ぼくはそのウイルスを壊したいのであり、いつ行動を開始するかは関係ないことだ。
2.ぼくの復讐はほとんど教師たちに向けられている。なぜなら教師たちこそ、ぼくの意思に反してぼくの人生に介入し、ぼくを今いる場所に導いた者たちだからだ。この戦場に!その教師たちのほとんどは、今も同じ学校にいる!
それにしても復讐の対象がいじめっ子(というより教師?)個人から学校にまで広がったのに社会全体にまで広げたテロに至らなかったのは不思議ですね。
自分の本当の憎むべき対象が誰か? なんて冷静に考えることができる人は、そこまで追いつめられた事はしないでしょうしね。
にしても、上記遺書はアメリカでこそありえて、日本ではあまりなさそうな文章内容ですね。幼少の頃からロジカルな思考をするのに慣れていないとあのような結論にはならなかったでしょう。しかしながら、彼自身にとっては、最後は自身にとって満足の行く結末を迎えれた(論理上は)ということになります。多くの日本での自殺者は内々に絶望して一人で死んでいくのとは対照的に。皮肉な事に論理的に考えるのが苦手だからこそ、日本では上記のような事件にはなりにくいのかもしれません。でも両者とも同一線上にある、紙一重の違いでしょうね。
ただ一つだけ言えることは、虐められて追いつめられた人にとっては、正義だの倫理だの、無関係な人だの敗者だのいっても、全く無意味です。彼のようになったら、「社会」にとっては有害な、排除すべき存在です。自分一人で内々に死んだ場合は「かわいそう」な存在として扱われるのと対照的に。
虐めの問題は、本質的に上のような問題を孕んでいると理解すべきです。よもすれば被害者が加害者に転じ、その社会的な見方が180°代わってしまうような、重大な問題として。
今のところ、ただ「かわいそう」といいつつ、「でも直接的は関係ない他人事」の話題としてしか見ていないような気がしてなりません。
長々と失礼しました。
しかし、関係のない人達まで巻き添えにした時点で彼も関係なかった人達の側からは¨悪¨と見なされるでしょう。
「やったらやりかえされる」の言葉通り、負の連鎖は止められないのではないのでしょうか。
次は巻き添えにされた関係なかった側の友達、肉親が彼の取った行動(仕返し、といった考えで)をとり、さらにその行動によって巻き込まれた人達が仕返し、さらにそれに巻き込まれた人達が仕返し、という風に。
不幸?故か自分しか見えず、自己防御が自己愛に変化し、悲劇の中に自分をすえて、そのナルシズムの中で「復讐」を実行したように思えます。
ええ、かつて自分がこれに近い心境でしたからね。これは狂気です。
遺書のそこかしこに「過ぎない」という断罪の言葉が見られますが、これは彼が自分しか見えていない証左です。
苛められるうちに被害者意識が募り、不信で自ら社会と切り離しこれの悪夢の堂々巡りを繰り返すうちに、やがて目に見えない何か(社会や神)に拳を振り上げるようになるのです。
しかしこの段階まで来ると、もはや"根性焼き"など肉体的な苦痛や被害があったとしても、彼が「被害者」とは言い難いものがあります。
私はこれをどちらが加害であり被害であるとは見ません。
どちらも行き過ぎた個人主義であり、また少年は結局自ら我とわが身を傷つけて自分の信条に従っただけなのです。
救いの手が来なかったのではなく、自ら世界から離れたのです。なぜなら、そうしようと思えば、どんな虐めもそうであるように、逃げる場所や守ってくれる人、戦う場所はあるのですから。
安易な「社会が悪い論」を私はとりませんが、しかしこうした人格(彼とその周囲)が生まれる背景には、やたらに個人の自由や権利を称揚し、聖域をつくる「解放主義(個人主義)」にあることは容易に想像できます。
なぜならこれは、その最初の思いが善でも結局はアナーキーそのものだからです。
個人(の自由尊重)主義がアナーキーの表裏なのではなく、程度の緩いソレなのです。これは人と人の繋がりを断ち、自分中心に世の中を見る下劣さに人を誘います。
かつて私がいじめからこの暗黒のスパイラルに堕ちそうになったとき救われたのは、一冊の本と「人は連続性の生き物」という単純な事実に気がついた事でした。
例え誰が何と言おうと、人は横軸(血縁や交友関係)においても縦軸(歴史)においても誰かのおかげで生きているのです。その人が知る知らずにかかわらず。
そして自分もまたその連鎖の一つなのです。これを意識した瞬間、私は力が湧き「恥ずかしい行いは出来ない」という意思がめばえ、人の糧になるべく自分を豊かにする方向に目を向けることができたのです。
だから彼には同情はしません。哀れみは持つでしょうが被害者としてではありません。
ちなみに一冊の本とは宗教書じゃありませんよ(笑
あるファンタジー小説です。
自分の服や靴や教科書が泥やゴミのなかに捨てられるのは日常でしたし、机もしょっちゅうありませんでした。あったとしても彫刻刀で口を憚るような事も刻まれたり、気分転換に殴られる事もざらで、水をかけられて女子トイレに閉じ込められた事もありますよ。
根性焼きどころか、熱した鉄の棒を手や顔に押し付けられましたし、いじめっこ達がクラスを超えて連携することもしばしばで、そのいじめっこ達が後輩に「アイツは何しても大丈夫」と吹聴するものですから、学校全部から小突かれてましたよ。
惨めの極みですね。あげくに何時自殺するかの賭けまで公然と行われてましたから。
貴方が、私のことを「単に冷たいひと」の言葉と誤解しない程度にこれだけは言っておきましょう。
やったらやり返す姿勢が重要なのではなく、自分が何かしなければ始まらないと気がつくことが重要です。そうでなければ、この世に何ものこらず、それこそ彼の言う「過ぎない」で人生は虚無のうちに終わるでしょうね。
そこには人にたいする愛は一遍もみられず、年老いてなお自分のみに汲々とする惨めさが垣間見えます。
人生で自己憐憫に浸る暇はないのです。それは青春の中にある若者の特権ですよ。
大阪教大付属小の児童殺傷事件とか、他にも放課後の小学校に乱入して児童を刺し殺した後、自殺した「てるくはのる事件」とか。
音羽の幼稚園のママ友が「母親が自分の子供をいじめていた」と相手の娘を殺してしまった事もありました。
でもマスコミの報道とは裏腹に世間のママ達から同情の声が上がったのは殺人犯の母親のほうでした。「みんな同じ悩みを持っている」と。
2chのこの事件のスレッドでも叩かれ続けていたのは被害者の母親でした。
殺人事件まで発展しなくても母親同士の感情のもつれから、特定の子供だけにつらく当たったり、お菓子をあげなかったりする困った母親の話は女性の集まるコミュニティではしばしば話題になります。
殺人を犯すような人間は誰でも社会にとって害悪ですが、怒りの矛先を間接的にしか関係のない対象に向けてしまいたい気持ちは、案外多くの人が持っているんじゃないでしょうか。
そ、そのとおり。そんな人間関係なんて捨てちゃえ。
そんな社会で生きなくて良い。
君はまだ若い。
捜しに行こうよ!
なければ作ろう!
今は無理でも いつか どこかに きっとある。
しかし、結論の死と 復讐への飛躍が、、、
そのロジックを断つ?修辞法を 捜したい。
しかし、死は何も解決しない。
しかし、死はつながらない。
しかし、それにつけても浮き世の沙汰よ〜
そこに教育の介入の余地はないのでしょうか、と思ってしまいました。
結局のところ、彼は、彼が軽蔑する他の人のように友達を作って楽しくやりたかったのだと思います。目が覚める方向が、他人を見下す方向ではなく、自分を変える方向であればよかったのに。人並に幸せになれなくても構わないと思えたらよかったのに。その道を選択できなかったのは、彼が弱かったからか、自分は常に正しいというプライドが強すぎたためか。
自分がいくら悩んでも、世界は動き地球は回る。どんなに自分の内面が世界が終わりそうなほど深刻な気持ちに満ちていても、外の世界ではいつものようにな鳥はさえずり、通りからは遠く車の音が聞こえてくる。自分の存在がその程度のものとわかったら、楽になれたかもしれない。欧米では宗教の力が日本より強いと思えるのですが、キリストの教えは彼には役に立たなかったのでしょうか。
精神的に追いつめられた人はじぶんのことしか考えれません。周りは目に入らないでしょう。
『私に悪いところがあるとして、それを直す努力をしても同じ状況なら、悪いのは私じゃなく皆』『私に嫌われる要素があったとしても、徒党を組んで嫌がらせをする時点で悪いのはあなたたち』『あんたたちの親もこんなくだらないことをして喜びを感じるような人たちなんでしょうね』『大人になってから思い出して、恥ずかしくもならないようなら救いようが無い』『手を繋がなきゃトイレにも行けないんでしょう』
担任に対しては、『いい大人がそんなに生徒の機嫌を取って恥ずかしくないですか』
よくもまあ、こんなに強いことばかり言ったもんだと思うけど、多分、こうやって強く構えてなきゃやって行けなかったと思います。
でも対抗するのに精一杯で自殺なんて考えてもみませんでした。怒り・嘲り・哀れみ、そんな気持ちだから相手のために自分の命をかける気になんかなりません。あんな馬鹿相手にしないどこーなんて思ってました。同じようにいじめられていた友人は、いじめの後遺症なのか、神経質な八方美人になってしまって(毅然としたところをとても尊敬していたのに。)残念です。
昔とはいじめ方が違うと言いますが、基本的には特定アジアと同じで、こちらが黙って耐えれば余計に増長するのではないでしょうか。
あと子供じゃなくても『え、嫌われてたの?』となるのは確かにショックだけど、思春期にはこうやって順繰りにいじめ合うようなことが普通に起こるものだと知っていれば、そこまでのショックは受けなかったような気がします。
本能とか自立の過程とか社会性が身に付く過程とかいう、いじめの心理の仕組みみたいなものを子供に教えることは意味があるんじゃないかなと思います。
「世の中に不満があるなら自分を変えろ、
それが嫌なら耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ、
それも嫌なら・・・(死んじまえ)」
すべての問題は 社会、環境など外因的な要素はさまざまあるだろうが、自己の中で消化していくべきものでしょう、それを他人に転嫁まして犠牲にするなどもってのほか 貴方の人生は所詮 貴方一人の人生、他人をそこまで巻き添えに出来るほどの価値は無い!
結局 世の中に対する狭歪な自己判断を全てだと思いそれから先の判断材料を得ようとしなかった自分が悪いのです。
自分の物差しが絶対に通用する時期なんてほんのわずかだ。
> 得られるのは、いい車と、いい家と、きれいな妻。所詮下らないものだ。
その時点での課題に必死で、将来を見据える余裕などない。
「コミュニケーションの落ちこぼれ」の言葉ですね。
幼年期には基本的な言葉をおぼえ、
小学生の時は、他人とのつきあい方をおぼえ、
中学生の時は、集団の中での処世を学び、
高校生の時に、力を蓄え
大学生の時に、いろいろな事を実践して経験を積む
彼は小学生の課題に、高校でアップアップになっている。
小学生に将来のことなんて考えられないですよ。
もっとも大人になっても将来のことを考えない
人もいますが・・・
この遺書は他人の幸せを自分の幸せにできない人間の、自己中心的なたわ言としか受け取れないですね。
自分だけで作った世界で生きていきたければ、田舎で自給自足の生活をすればいいだろうに。それも自然の恩恵が無ければありえない事ですが。
彼はそういう事にさえ感謝できない程、想像力が無かったという事なのでしょう。
ただ、“日本のいじめ”問題を考えるうえで、どの程度一般化できるのかについては少々戸惑いを感じます。
今さらマックス・ウェーバーでもないですが、決定論を前提にして「社会的に成功すること≒神に祝福されていることの証明」という発想が底流にある欧米のキリスト教(とくにプロテスタント系)社会において、自らを失敗者と自己規定することが、どれほどの孤独感や疎外感を生むものなのか。まさに、“悪魔”と契約してでも、自分を疎外した者達や社会に復讐をしようとする今回のような事件は、とくにアメリカではしばしば起こっていることです。(その意味では、仮に空疎な神話に過ぎなくても「アメリカンドリームの崩壊は、アメリカ社会の崩壊」に直結する問題でしょう。)
確かに、この“遺書”を読む限り、日本でも起こりうる(もしくはかつて起こった)問題のようにも思えます。しかし、対処の仕方は―具体的には分かりませんが―、日本の文化的・社会的背景を前提にして独自に考えざるを得ないような気がします。
理解できない事を無理やり理解する必要は無い。
池田小の事件の犯人、「反社会性人格障害」と呼ばれる異常性格※だったそうです。(※精神病ではなく、社会的に正常な範囲からの性格の逸脱 という意味です)銃乱射事件とか、大きく報道されるような事をする犯人の背景には、この異常性格がみられることが多いそうです。
この性格の人は、周りの社会を自分の感情のフィルターで歪めた形で認識してしまうため、何事も自分への悪意と受け取る傾向にあり、(主観的に)どんどん追いつめられて行って、そのうち自分が社会から阻害されている。ならば自分から社会へ復讐してやる、という風な考え方を持つようになるそうなのです。
どのようにしてこのような性格が形成されるのかははっきりしておらず、
遺伝的因子か、産まれてからの環境か、偶然か、それとも複合要因か、なんとも言えないのですが、このようなタイプの人には、残念ながら、世間の人たちの普通の論理や規範をそのまま説いても、通用しなさそうです。
この遺書にも同じような背景があるように私には感じられます。といっても専門の精神科医でなく、 似たタイプの人がたまたま身近にいただけの素人の判断ですので、断定はできませんが…
まぁ確かに、法を犯した上に
社会に貢献もせず勝手に死んだわけですから、
擁護はできませんが…
この人が他人を巻き込まず、
自分の考えを披瀝する事もなく死んでいたら
悪魔だの、自己中心的だの、言われずに済んでいたんでしょうね。
自殺願望のある人間の思想なんて
第三者の支持を得られるわけがないんだから
黙っていれば良かったのに。
この事件をきっかけにドイツでもゲーム規制論議が起きているようです。
彼にとっては自分の死を一般的な文脈で語られるのは不本意でしょうが・・
見当違いの努力の末に挫折して、
勝手に社会を逆恨みし、
オリジナリティの欠片も無い方法で復讐しようとした。コイツは馬鹿だ。
俺は人生の何処かで間違って、多分、下らん意地や一種の復讐心から
誰よりも有能であろうとした。和気藹々やってる奴等を密かに下に見ていた。
わりあい強力に産まれついた俺には険しい道ではなかった。
有能になってみれば、俺はただの便利なマシーンに過ぎなかった。
培った能力は俺を幸せにはせず、他人を遠ざけるだけだった。
お金には不自由しなくなったが、人生を分かち合える伴侶も無く、
真に心を許せる友の一人も居ない。ふと振り返ると、自分の虚ろさに愕然とする。
俺も馬鹿だ。時間は取り戻せない。
それでも、まぁ、こうしてネットで雑談をして、
美味いものを喰らい、好きな音楽を聴き、温めの風呂につかる時、
人生は捨てたモンじゃねえなと思う。
いじめから救われるために本人ができることは次の二つの方法しかないのではと思います
@、徹底的に闘う
A、徹底的に逃げる
闘えない人には逃げる場所を与えてあげないと……
家族にしろ、友達にしろ、恋人にしろ。或いはそれ以外の気晴らしや逃避にせよ、結局自分で作るしかないのです。つまり自分の支えとなる人や場所です。何もしないで与えられることはありません。
だからこそ、みな彼に傲慢なまでの利己心を見たのでしょう。
誰かが助けてくれるのではなく、日本の諺でも西欧の神でも言われているように、自分の行いが自分を助けるのです。
それが出来ない人は結局不幸になるしかないのです。
戦う力もその「逃げる場所」をどうやって作ってきたかによるのです。自分を休ませ力に転化できる場所なのですから、それが無いとしたら彼は誰とも信頼関係を築けなかったのだと考えられても仕方在りません。
この場合、「助けなかった」彼の肉親や学校を攻めても詮無い事なのです。
なぜならそれは彼の周囲にあり、どこでもそうであるように彼を拒絶しているはずはないのですから。
死者に鞭打つことはしませんが、やはり死の原因は彼にもあったとしか言えません。あの文面からはどう見ても自助の精神が見えませんから。
むろん苛めは正当化されるものではありませんし断固認めてはなりませんが。
救いの可能性があったとすれば、誰か一人でも「君の言うことは分かる」「君が正しいよ」と寄り添ってあげることだったでしょうか。
私の場合はその「誰か」がヘルマン・ヘッセでしたが。つまり、思い込みです。それでも充分でした。救いを求めなくなったら、人間終わりです。
日本 年間勤務時間2450時間 平均年収430万円
ドイツ 年間勤務時間1350時間 平均年収355万円
残業もなく、長期の有給休暇もとれて至れり尽くせりのドイツのリーマンが奴隷なら日本人は何?
それを行っている特定の誰かではなくてさ
だから壊すなら世界か自分になる
この件に関しては、少数ですんでよかったじゃない
世の中には殺されることを望んでる人だっているんだし、悪いのは殺してやらなかった人たちだろ
やったのならその責任を、何もしなかったのならただ結果を突きつけられるのが世界ってもんです
外国から「ウサギ小屋」と評される小さい家を買うために必死こいて働くマゾ民族、じゃない?
こんな考えでいたのなら事件起す前だってロクなもんじゃなかっただろう。他の誰をもこいつは認めちゃいない。価値あるものと認めてない。それが態度として表に現れていたはず。虐められるべくして虐められたのではないかと思う。そこまで含めてこいつが悪い。
子供の頃に背伸びをして読んだ大人向けブラックジョークの本です。
読後、世の中や人というのは、こんなににも汚いものなのか!
しかもそれを笑うのか!
と、かなりショックを受けました。
しかし大人になった今では、その本に感謝しております。
美し過ぎる理想を教えてくれる人はいても、
人の醜さを教えてくれる人はなかなかいません。
嫉妬、ねたみ、恨みetc 世の中に汚い言葉が山ほどあるのは
人間が崇高に出来ていない証拠なのだと思います。
所詮、波長の合わない人とは仲良くなれないものだし、
だからこそ友達と思える人を大事にしたくなるわけで。
ボッセ君は、良く言えば究極の理想主義者であり、
それを信じ過ぎた純粋な人なのかもしれません。
「複合的な原因」ってのも当然あると思うのですが、
「世の中冷たいもんだよ、でも時には良い事もある」
と教えられていたら、ちょっとは違った人生を歩んでいたかも。
別に世捨て人てわけじゃ無いんですが・・・。
それにしてもこの手の話題は伸びますねぇ。
カンコク関連と双璧をなすんじゃないですかね?
それは兎も角
>学校に行って、いい人生を送るために勉強しろと言われた。でもそれで得られるのは、いい車と、いい家と、きれいな妻。所詮下らないものだ。
↑訳知り顔でこんな如何にもそれっぽい事言ってるようじゃ、どの道碌なモンにゃなれなかったでしょうよ。
多分それはお互い世の中下らないという感情が流れているからでしょう。私は逆にこれだけ多くの人が人生について肯定的に見てることにちょっと気おされました。
心に傷を負い、その対処法がわからず、傷によりどんどん気力が削がれ、自分の理想と現実が乖離してゆき、覚醒と彼は言っていますが、自分自身になることにより心の中にあった怒りに気づき彼は実行したのではないでしょうか。何が悪いとうのはその心の傷の対処を知らなかった彼、それを教えなかった学校または親、その傷をつくった社会、周りのいじめっ子というところでしょうか。
気力のない人間にとってこの世は生き難いでしょう。彼の気力で生きていく現実は碌でもなく下らないもので、そのように生きていくことはいやだった。
でも人を傷つけるのはよくなかった。そこが子供っぽいかなあとも思います。
こういう問題児はおとなしく自殺するような根性無しばかりなんで、自分の尻に火が付く心配だけはありませんから、真面目に取り組むだけ損なのでしょう。
教職員らの見苦しいまでの保身ぶりを見るにつけ、そう思ってしまいます
もし、昨今のイジメ自殺者すべてがこのドイツ人青年と同種の結論を下せば、尻に火が付いて多少はマトモに問題に取り組むのではないですか
ある一つの心情や哲学がすべての人に受け入れられたり、生き方を変える
きっかけになるとは限らない。
どういう思想や背景があろうとも、こういう事件は続くのでしょうね。
ま、できることといったら、周囲にこういう事がおきないよう自分のやれる範囲で気を遣っていくことぐらいですかね。それでもどうにもならない場合もあるでしょうが。
日本独特の事情を考えなくてはいけないという上にある指摘ももっともですし、必要なことです。が、世界全体、とりわけ「先進国」で進行している共通の問題でもあるという認識をしておかなくては、処方箋を誤る恐れがあります。
そういえば、日本にはドイツを崇拝する人々が右から左までわんさかいますが、その意味でも、このニュースを掲載してくださって感謝します。
今は小学生の校内暴力が話題です。
万引きなどでも言われることですが、なんでもかんでも「いじめ」という平仮名の三文字で表現するのもどうかと思う。
他人にケガをさせたり、脅して金をせしめたり、鬱になるほど精神的に追い詰めたりした場合は、他の表現を使ったほうがいいのでは。
ドイツのいじめはすごいわ。
日本の比じゃない
法治国家なんだから、法的に回答を導けるでしょ?
倫理的に話は、ディベートの材料にしてはいけない。
そこは、どう考えようと自由な部分なのだから。
遺書自体には、共感できる部分多々あります。
(自分がおかしいのでしょうか?)
違いは、強行に及ぶか踏みとどまるか。
紙一重と思います。
電車の中で隣の女性にどんな妄想を抱こうが
罪にはならないが、おしり触ったら犯罪。
この違いを理解して踏みとどまるのが社会性
なのでしょう。
凶行に及ぶ心理は、家族関係の病理とでも
いうような原因があるものと思われます。
その家族関係のありかたは、当然社会環境の状況に影響を受けるものなのだと思います。
とんちんかんでしたか。
確かにあなたのいうとおりかも知れませんね
自分の子供の頃を思い出すと世界というのは学校と家庭が全てだったように思います
私の場合は逃げたところに自分を受け入れてくれるところがあったから闘うという選択肢を見つけたというだけで運が良かったのかも
でもやっぱりいじめを社会のせいにするのは自分の視点が狭い人なのかなって思います
広い視点がもてれば自分を受け入れてくれる世界を見つけられるし自分のできることも見つけられるから
なんか支離滅裂ないい方になっちゃいましたけど結局あなたのいうように自分で行動できる人だけが自分を救えるってことなのでしょうか?
どうせ死ぬなら戦って死のう?
でもセバスチアン君、戦う相手を間違ってます。