2012年12月11日

政治をスルーすることの意義

選挙中だけあって、ネットと政治の融合を考えようだとか、タレントもどんどん政治発言すべきだとか、若者はより積極的に政治参加すべきだとか、そんな話をあちこちで聞きます。

こういう呼びかけに、何らおかしなところはありません。しかし、どこか白々しさを感じて引いてしまう人も多いと思います。そうすると、「それが日本人の悪いところだ」「欧米では家族間、友人間で政治の議論をするのは普通のこと。そうやって政治意識を持たないと、この国は変わらない!」なんて力まれてしまいます。

たしかに欧米、とくにヨーロッパ人の政治意識は高いです。しかしその内実は、大方の日本人の想像とは違います。仕事がなくなると「仕事くれー!」とデモし、物価が上がると「物価下げろー!」とデモし、「カネ持ちからカネを巻きあげて、社会保障と公共事業でバンバンみんなに分配しますよー」などと主張する政党に嬉々として投票して、結局実現できなくてますます不景気になり、仕方ないので企業優遇して、そうすると「話違うぞー!」とまたデモる。その程度のものです。

つまり彼らの政治意識というのは、必ずしも政治について深く考えて政治参加するというわけではありません。社会のあらゆる問題を政治の問題としてとらえ、政治の力で解決しようとする、そんな発想のパターンをしているにすぎないのです。

だから「高い政治意識=より良き政治」ではありません。それは、19世紀から今日にかけて、ヨーロッパが生んだ政治作品を見ればわかります。植民地主義、共産主義、国家社会主義、そして今は巨大な時限爆弾であるEU。まるで世界の癌です。

もちろん悪いことばかりではありません。「ものごとを政治的にとらえる」というヨーロッパ人の姿勢は、社会に欠かせない政治というシステムを改善し、人類の進歩に貢献してきました。ただ政治は万能ではないのです。ヨーロッパの政治オタクぶりは、そこから学ぶことは多いとしても、成り立ちの違う別の文明が一様に模倣すべき姿勢とは言えません。

ヨーロッパ文明から派生したアメリカ文明は、ヨーロッパの伝統をある程度引き継ぎ、政治意識もなかなか高いですが、ヨーロッパ文明のアウトサイダーたちにより築かれただけあり、ヨーロッパとは異質な世界観を育みました。世界をビジネスとして眺める姿勢です。アメリカ人は、社会の停滞をビジネスで打開しようとするのです。そこでは政治は、ビジネスのしやすい環境と、ビジネス・イノベーションの生まれやすい土壌を作るサブ的役割しか与えられていません。

ビジネスは社会において重要なピースですが、政治同様万能ではありません。他の文明はアメリカから学ぶべきことは多くても、アメリカのようになるべきとは言えませんし、なれません。それぞれの文明には、それぞれに違う視点があり、社会的難題の乗り越え方もまたそれぞれなのです。

では日本文明は社会の危機をどのように克服してきたかというと、たいていの場合、現実に背を向けて苦しみを乗り越えてきました。無常を尊び、もののあはれを愛でる日本人は、世の中が不穏になるとき、現実と格闘して変化を勝ち取るのではなく、現実をスルーして内面に平和を見出すことで苦難を乗り越えてきたのです。

と書くとただの負け犬のようにも見えますが、そうではありません。歪んだ社会を放置しておくと文明は滅んでしまいますが、日本は長きに渡り西欧文明に負けない物質的繁栄を築いてきました。日本文明は、現実に背を向けつつ現実を改良するシステムを備えているのです。

それは、日本史において社会不安が高まるたびにあらわれる奇妙な現象、「傾(かぶ)く」行為にあると考えます。

傾くとは、社会の権威に背を向けて、派手な格好や突飛な行動をすることを指します。南北朝時代の「ばさら」、戦国時代の「傾奇(かぶき)者」、さらには幕末の「ええじゃないか」と、日本史においては、大きな時代の変わり目になると、殺伐たる現実をスルーして、世の権威を笑い蹴飛ばすようなふざけたムーブメントが起きるのです。

これは、ユング心理学における「トリックスター」=道化にあたります。トリックスターは、組織の再生や新たな価値の創造には欠かせない存在とされます。バカなだけに世間のあらゆる常識やしきたりをスイスイと飛び越えて従来の価値観をかき回し、それにより硬化した社会秩序を破壊し、思いもよらない変化を招来するのです。

歴史的に見て、日本文明はどうもこのトリックスターによる破壊と再生を、システムとして内包しているように思えてなりません。社会問題をスルーすることによる社会変革です。

ヨーロッパに倣い政治的に社会改良を志すのも、アメリカに倣いビジネス・イノベーションで世の中を変えようとするのも大いに意義のあることです。しかし、政治をスルーした、一見非建設的な傾く行為も、特に日本のような文明的性癖を持つ社会においては、決して無意味なことではありません。というより、むしろこの国の変化は、そこからしか生まれてこないに違いないのです。

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この記事へのコメント
なるほど、面白い見方だと思いました。
権威的でいながら権威を否定する事に意味があるという感じですか?
それとも権威的だからこそ否定に意味があるのかもしれないですね。

そういう意味では、選挙に行くべきだと意見を無視して厭世的になっている人々も、一様に否定されるべきでないという考えは理解できるところです。
そこに答えがあるかもしれないというのもそうかもしれないと思わされます。

ただ傾く行為自体が変化の直接的トリガーになるという事でしたら、自分は否定的でしょうか。
江戸幕府を作ったのは傾奇者ではないし、明治政府を作ったのもええじゃないかではないし、傾奇者が徳川家康を支持したとも中々読み取りづらいからです。

最近記事が多くて嬉しく思います。
なかなか無い視点で考える機会を与えていただいています。
ありがとうございます。
Posted by ななき at 2012年12月11日 09:35
ここ最近の文章は複数人によるものに見えます。
Posted by さむ at 2012年12月11日 19:46
以前のエントリーにあった後藤新平の「倫理と道徳」の続きですか。既存の「倫理と道徳」でどうにも受容できなくなった時、日本では「傾く」つまり対象をずらしたり異化したりして消化しようとするんだと思います。既存の「論理や道徳」の支配する世界はその推移次第で時間を掛けて相対的に小さくなっていくんだと思います。
Posted by ト at 2012年12月11日 20:39
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