名門ノートルダム大のラインバッカーである彼は、カレッジフットで最も栄誉ある賞「ハイズマン・トロフィー」の投票で2位に入る実力者であり、プロアメフトNFLのドラフトの目玉でもありました。そんな彼が、今大変なスキャンダルに見舞われています。
事の起こりは去年の秋、ミシガン州立大との伝統の一戦を前に、テオ選手は祖母と恋人を相次いで失う悲劇に襲われたと伝えられました。そして白血病で死亡した恋人の「わたしの葬儀に出るよりも試合を優先して。プレーで私を追悼して」という遺言通りテオ選手は試合に出場し、12タックルをあげる大活躍でチームを勝利に導きました。
悲しみを乗り越えて栄光をつかんだ感動物語は、スポーツ・イラストレイテッド誌をはじめとする雑誌、CBS、ESPNをはじめとするテレビ、そして各新聞で大々的に報道されました。死んだルネイ・ケクアさんを偲んで白血病治療のための基金が立ち上げられ、テオ選手は辛い体験を語り、白血病病棟を見舞いました。全米は泣き、テオ選手はロールモデルになりました。
朝のニュースで悲恋を紹介しテオ選手を讃えたCBS
しかし今年になり、驚くべき事実が判明しました。ルネイ・ケクアの死亡記録はなく、在籍していたとされる大学にも在籍の記録はなく、彼女の写真として紹介された写真は別人のフェイスブックから拝借したものでした。
彼女はもともとこの世に存在しない、架空の人物だったのです。
今、アメリカのマスコミはテオ選手の背信に憤り、悲恋が捏造された経緯を追及しています。しかし、仮にテオ選手が自ら感動物語を捏造していたとしても、はたして彼は全米を揺るがすほどの極悪人なのでしょうか?
なるほど彼はどうかしているレベルにまで話を盛りました。しかし、たとえば二次元の彼女に入れあげ、彼女の死をリアル恋人の死のように悲しむ男がいたとしても、少し気持ち悪いだけで、モラルに反する行動とは言えません。問題があるとするなら彼ではなく、そんな彼の話に飛びついて美談に仕上げ、拡散したマスコミにあるのです。
アメリカのマスコミの中には、なぜ事実を確認することなく記事にしたのか自省するものもあります。しかしそれは、フィクション作家がウソを書いたのを後悔するような白々しい態度です。
かつてテレビでスポーツドキュメンタリーを作っていた頃、「もっと感動を!」という上からの注文にどれほど辟易したことか。そしていつの間にかそれに違和感を抱かなくなり、誰に言われなくても「もっと感動を!」という姿勢でストーリーを盛りまくる自分を見つけて唖然としたことか。
マスコミ、とくにスポーツマスコミというのは、常に頭の中に「もっと感動を!」という声をこだまさせながら取材をしています。スポーツという素材から感動物語を紡ぎだすのが彼らの仕事であり、フィールドに散らばるパズルのピースをいろいろと組み合わせて、そこに「感動」という要素を見つけたときに彼らは小躍りします。
そんな彼らがテオ選手の悲恋に飛びつくのは当然です。事実を確認しろと言われても無理な話です。スポーツの感動というのは程度の差こそあれほぼすべてが虚構に基いており、事実にこだわり始めると、玉ねぎの皮を剥くように何もなくなってしまうからです。
例えばテオ選手の場合、ルネイ・ケクアが実在し、ただし恋人関係と呼ぶには微妙な関係だった場合どうなるのでしょうか?2人の間に恋愛関係がなければ、ルネイ・ケクアが実在しないのと同様にテオ選手の悲恋は虚構になります。しかしスポーツマスコミの常識に従えば、わざわざそこを追求し、恋愛関係の有無にこだわるべきではありません。そこまですると、スポーツにまつわる感動物語はほぼすべて捨てなければならなくなるからです。
今回テオ選手の感動物語の虚構を暴いたのは「Deadspin」というウェブメディアでした。「家内制メディア」を可能としたインターネットは、スポーツ報道の世界にオルタナティブな視点を持ち込み、マスコミという資本集約型感動生産工場で作られた神話を揺るがします。
このままいけば、やがて多くのメインストリーム・スポーツはチープな感動の仮面を剥がされ、それとともにあまりカネを生まない存在へと変容してゆくのは避けられません。それを恐れるからこそ、アメリカのマスコミとスポーツ界はテオ選手事件に血相を変えて話をすり替え、事件の「主犯」を見つけてスケープゴートにしようとしているのです。