しかしインターネットの普及後、マスメディアは必要不可欠な存在ではなくなりました。鈍感な自分が初めてそれを感じたのは2004年頃でしたが、その思いは日々強まり、それとともにテレビの仕事をするのが苦痛になり、やがて業界を去る決意をするに至りました。薬にならない劇薬はただの毒です。目の前の利益と既得権を守るために悪に奉仕することは、自分にはできませんでした。モラルというよりプライドの問題です。
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ハイパーメディアクリエイター氏が、4Kテレビにからめてテレビ業界の現状を次のように語っていました。
昨年末、久しぶりに日本で年末年始を過ごし、久しぶりに「紅白歌合戦」をチラ見したが、
出演者の数にビックリした。無意味に演歌歌手の後ろに、団体を配置するのに善し悪しはともかく、十年後には、総出演者はのべ1000人を超える事になるのではないだろうか?
現在、日本のテレビが創出しているのは「みんなでやってる感」である。インターネットに顧客を取られたテレビは、テレビでしかできないことをそれなりに考え、それは、大画面で「みんなでやってる感」を演出し、視聴者をその「みんな」に入れてしまう手段である。よって、テレビは日々「みんなでやってる感」が跋扈し、これには、この正月最高興行収入を出した「ワンピース」から「サッカー」の国際試合までこれに含まれるのだろう。
4Kテレビ
情報媒体としての地位をインターネットに脅かされたテレビが、テレビにしかできないことを追求し、それが「みんなでやってる感」であるという見方に完全に同意します。そしてそれこそがマスメディアの毒なのです。
「みんなでやってる感」の何が悪いのか疑問に思う人もいると思います。人々が意識してひとつになるのであれば問題はありません。しかし今のマスメディア、とくにテレビがしているのは、人々をモブ化して群衆を操作する行為であり、これは「ひとつになろう」の持つ肯定的な側面とは対極に位置する毒に他なりません。
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観測することでその観測対象が変化してしまうというのは、ハイゼンベルクの不確定性原理ですが、マスメディアというのはまさにこれで、透明な観察者になることはできません。ある事件の闇を第三者的立場から告発すると、その瞬間にマスメディアは事件の関与者となり、事件そのものの性質が変化してしまいます。だからマスメディアには元来2種類のタイプの人間がいました。ひとつは、そんなマスメディアの性質を利用して積極的に社会を変えようとする者、もうひとつは、あくまで傍観者であろうとして社会に及ぼす変化を極力小さくしようとする者です。
後者は、本音を言えないという欠点を持ちます。極論を避け、感情を押し殺し、穏健な両論併記でなるべく世の中を煽らないようにするため、受け手からすれば奥歯に物が挟まったように歯がゆく刺激が足りません。インターネットの普及に最も打撃を受けて衰退したのはこのタイプです。本音を語らずにバランスをとろうとする態度と、本音をぶつけあいつつ全体としてバランスをとるインターネットでは勝負になりません。その結果マスメディアは、前者のタイプ、大衆扇動機関としての性質を積極的に利用して社会を動かそうとするタイプに一元化されつつあります。
「みんなでやってる感」は、そうした態度の顕れのひとつです。政治、事件、エンタメ、彼らはあらゆる分野において国民的なヘッドラインを作り、大衆を同一の対象に注目させ、人々の関心と欲望をコントロールしようとします。そして自分の関心と欲望を支配された人はもはや個人ではなく、モブの部分にすぎないのです。
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ハイパー氏は「みんなでやってる感」が危険な理由を「ソフトなナショナリズム」に向かうからだと述べています。これはある面誤解を誘い、ある面正しい見解です。
自分はナショナリズムはそれほど悪いものだとは思いません。ナショナリズムは誰の中にも自然にあるものです。そしてナショナリズムを下らぬものと唾棄できるのは、よほど生活に恵まれたごく一部の人に限られます。
ただし、ナショナリズムは誰の中にもあるものだけに求心性が極めて高く、多くの人の関心と欲望をコントロールするのに最高のネタとなりえます。だからナショナリズムは危険なのです。ナショナリズム自体が悪いのではなく、今日のマスメディアのような輩にナショナリズムを扱わせると、人々は簡単にモブ化してしまい、あまりの威力に暴走して水蒸気爆発してしまうから危険なのです。
インターネットにも独自の力学でブームを作り出す力があります。クチコミというやつです。日本でも世界でも、クチコミという下からのブーム創生力は年々増しています。ブームを作る主導権まで奪われたら、マスメディアは本当に終わりです。だから彼らはこれからますます死にものぐるいで人々の関心と欲望をコントロールしようとするはずです。そしてその過程でナショナリズムに手を出すのは確実です。
それがいつになるかはわかりません。しかし差し当たりは、ハイパー氏の言うように、「ブラジルワールドカップの際には、国家をあげて国民に4Kテレビがゴリ押しされる」のは間違いないと思います。
のたうち回って、最終的に在るべき位置と規模に落ち着けばいいんです。
技術的な進歩も、強引でも何でも進めるべきです。
ソフトの進歩と合間って、ある時ポーンと次の次元を与えてくれるでしょうから。
この10年で思い知りました・・
端末機器については、高画質大画面、双方向性を含んだ多用途、自力充電装置付を含む省電力、iPadの様な孫端末と云ったセルフネットワーク形成機能・・とどんどん広がって行くでしょうが、結局、高機能化に対してソフトがどのように変化して行くのかが、全く分からない。
現行のハードの機能範囲ダケでは、予測は不可能だと思います。
焦眉の点は、企業の宣伝費を経営資源としてとらえるのなら、已然としてCMをどれだけ消費者に抵抗なく受け容れて貰えるかではないでしょうか。
人は「美しいモノ」「感動的な共感」に神の啓示や息吹を感じて、其処へ集まる一方では、「刺激的な事」「見てはいけないモノ」にも魅了されるから、モラル規制が必要になる。 此処に宗教的な要素が加わると、その宗教に対する共感反感相俟って、さらに複雑化する、 のが是まで我々が得てきた経験知であろう。
ハイゼンベルグの不確定原理の示す通り、人為が加われば、事象が変化を来すのは、全体を構成する一部にしか過ぎない物事は、全体が「時間の進行」と云う変化に曝されている限り、常に変化するものだと言う事に根差している、いわば、人智では超えられない神の領域の為し事だから、譬え、TVが双方向性になっても、本質的な変化はア起こらないだろう。
「
「皆でやっている感」は、宇宙的規模の巨視からすれば、微細波動に過ぎない我々人間が、神に示す「意志」を形成する本能的な欲求ではなかろうか。
、
20世紀のメディアは、その試みの第一歩に過ぎなかったのではないだろうか。
ネットはあらゆる所に拡がってますが、それを自分の情報源として、生き方を選択するツールとして、使っている日本人は本当に僅かで、ごり押しだなんて騒いでいるのも、ネットの世界からしたら信じられないくらい少数だと思います。
フジ叩きにしたって、それすらもう流行りの一部になってしまっていて、最初に憤ってフジを叩いた人たちの思いからは手を離れてしまっている気がします。
だから、そういう日本人が腐るほどいる限り、テレビの権勢は何だかんだでまだしばらく続くんじゃないかな。
腐って崩れかけているのが見える人たちにとっては、ものすごくもどかしいだろうけど。