7月16日のニューヨーク・タイムズでは、オランダの作家、レオン・デヴィンテル氏が、2002年に起きた動物愛護運動家による次期首相候補の暗殺と、去年、映画監督でコラムニストのテオ・ファン・ゴッホ氏が、オランダ生まれのイスラム原理主義者に「処刑」された事件を取り上げて、オランダ社会の問題を指摘しています。<Tolerating a Time Bomb>
数世紀に渡って、オランダは世界で最も寛容でリベラルな国家と見られてきた。規律正しい市民社会は自信に溢れ、自分と違う考え方を持つ者との共存を許容してきた。デカルトが亡命先に選んだオランダは、ヨーロッパの思想、報道の自由の中心地だった。
そのオランダはもうない。
映画監督テオ・ファン・ゴッホ氏の殺害と、政治家ピム・フォルタイン氏の暗殺は、エラスムスとスピノザを生んだオランダの終わりを告げている。
オランダ人は突然非寛容になったわけではない。しかし、この二つの殺人は、過去40年にわたって社会の根幹を揺さぶってきた二つの力の帰結だ。それは、1960、70年代の文化、セックス革命と、その繁栄の時代に受け入れたイスラム系労働者の急増だ。
この二つの力により、オランダの寛容な社会は少しずつバランスを失っていった。メディアと政治家とアーティストは、カルヴァン主義的な古い価値観を攻撃し、一方でオランダ生まれのモロッコ人たちは貧困の中で不満を鬱積させてきた。
そしてメディアと政治家は、移民の問題を議論することを避けてきた。革新的なオランダにおいては、すべての問題は社会経済的に議論されなければならず、宗教と文化について語ることは、許されなかったのだ。
外国の報道では、フォルタイン氏は極右と表現されたが、彼は個人の自由を尊重する点においてリベラルであり、社会の規律と価値を重んじた点においては保守だった。いうなれば彼こそ、古典的な「寛容なオランダ人」だった。
ゲイだった彼は、同性愛者を抑圧するイスラム系住民の態度に抗議した。しかし一方でイスラム教徒のオランダ社会への統合と、イスラム教への寛容を強調した。
テオ・ファン・ゴッホ氏は20年間に及ぶ言論活動で、オランダ人の大半をやり玉にあげた。彼の映画はスキャンダルを狙ったもので、そのコラムは品性を欠いたが、常にユーモアを忘れなかった。最近では、移民の問題とイスラム系住民の非寛容を批判していた。
しかし、イスラム原理主義に昏倒した若者たちには、ファン・ゴッホ氏のユーモアも、多様なライフスタイルを許容するオランダの寛容も理解できなかった。去年11月、アムステルダム生まれのイスラム原理主義者は、ファン・ゴッホ氏を射殺し、その首を切断しようとした。
裁判は2日で終了したが、その影響は今後長く尾を引くだろう。今やすべての政党は信頼を失い、国民の多くは福祉国家の存続を願っているが、移民を受け入れ続ける年老いた国家において、それがどう可能なのか誰にもわからない。
劇的な路線変更なくして、オランダの寛容は自らを滅ぼすことになるかもしれない。
長い目で見れば、若いイスラム系住民を、何とかカルヴァン主義的な価値観を持ったオランダ社会に統合していかなくてはならない。オランダ国内だけの問題ではない若いイスラム教徒の過激化は、社会の時限爆弾だ。
一方17日付けのイギリス、サンデータイムズでは、マイケル・ポーティロ氏が、多文化共生時代の終わりを告げています。<Multiculturalism has failed but tolerance can save us>
彼らの出身地ではそうでないという理由で、イギリスの人権と法律に違反することを許すことは、寛容とはいえない。すべての文化は倫理的に平等だなどというのは、危険なナンセンスに過ぎない。そのような考え方は、善と悪を区別する我々の判断力を腐らせるだけだ。
寛容な社会では、他人の観点から物事を見ることが奨励される。キリスト教の名の下に行われた過去の行き過ぎを考えてみれば、イスラム過激派の台頭は仕方ない。敬虔なイスラム教徒の目から見れば、西欧社会は退廃的だ、等々。しかし、そんなきれい事を言う時は終わった。我々の市民と社会は、テロと殺人を文化の違いで正当化できると信じている集団に脅かされているのだ。イギリスは、その価値観を守り、そこで暮らす全員に、イギリスの法律に従い、慣習を守ることを要求する権利を持っている。
多文化共生を信奉する甘い考え方は、我々を弱体化させてしまった。
つい半年前まで、ヨーロッパで多文化共生の理念を批判することは、極右差別主義者のレッテルを貼られかねない暴挙でした。それからすると、ものすごい変わりようです。時代は大きく動こうとしているのかもしれません。
現在の日本では、他文化共生という言葉は、未だ無批判に美しい考え方として受け入れられています。しかし、多文化共生を推し進めたヨーロッパの壮大な実験は、無惨な失敗に終わろうとしています。そしてその問題をどう解決すればいいのか、誰にもわかりません。
ぼくは、個々の違いを尊重する、可能な限り寛容な日本を望みます。しかし寛容な社会は、オランダの例を見るまでもなく、極めて微妙なバランスの上に成り立っているもので、どこかで一線を引いて守ろうとしなければ簡単に崩れていきます。
ヨーロッパの状況は、イスラム移民を大量に受け入れていない日本からすると、他人事にも聞こえます。しかし、多文化共生という美名に誰も反論できないこの国は、先進国に共通する病理に確実に侵されています。社会の時限爆弾になり得るのはイスラム系住民だけではありません。
他文化を尊重するとは、他国の文化・歴史・宗教・政治体制を尊重すると言うことだと思います。
にもかかわらず「俺たちを受け入れろ」ということの
方便としてこの言葉が使われているように思います。
特に今の日本では、です。
地方参政権は、地方の文化・歴史の要です。
これが外国人に影響されるとなると、地域社会から日本らしさが失われますし、
もちろんオランダのようなことも起こりえるでしょう。
日本人は今のままでも十分、他国人、他人種、他文化、他宗教に肝要だと思います。
なぜ一部勢力は政治的基盤さえ要求するのでしょう。
明らかに主権侵害行為で、日本社会を破壊する行為です。
※在日参政権で日本内部から変えようと主張する李鐘元立教大教授(イ・ジョンウォン、国際政治学)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=65632&servcode=200
なぜ彼らはやって来るのでしょう?彼らの故郷でもなく劣悪な環境だと言うなら帰れと叫びたい。
悪意にさらされるのはとても辛いです。
イスラムだからイスラム法があるからではなく、そこはドイツでありドイツの法があるのです。もしイスラムだからなどという理由で法が曲がるのであればそれはすでに法治国家ではないと言う事です。
本来この問題は簡単な問題なのです、移住者は移住先の法に従う、自らが定めた勝手な法など認められないということで十分なはずなのです。
それなのに、その法に従わないのであればその法に従い逮捕しその法に従って罰すれば良いのです。
信教の自由と順法の義務とは本来ぶつからない考えなのです。法治国家では極端な話、法によって信教の自由が保証されているのですから。法がすべてに優先するのです。
そうした点から、今回、韓国が先に、永住する外国人に地方参政権を付与する措置を取ったのは、高く評価されうる。
日本が歩む道に韓国が及ぼす影響力は少なくない。
ttp://japanese.joins.com/article/article.php?aid=65632&servcode=200
【コラム】日本の外交は誰が動かしているのか。
集団的自衛権行使へ「九条」再解釈を ヘリテージ財団、日米安保で提言
ttp://www.sankei.co.jp/databox/n_korea/nkorea_69_1.htm
日本の歴史問題について、提言は日本側の諸問題も完全には解決されていないと述べる一方、
中国の反日デモなどは「政治的な動機により北京の指導部が指示し、日本人の贖罪(しょくざい)意識を
操作して日本の国連安保理常任理事国入りを妨げようとしたことは明白」という分析を明記した。
米国は一切、介入すべきでないとしながらも、現状のままだと「北京、平壌、ソウルなどの政府が
自国の国内や国際的な政治の目的のために日本の歴史問題を操ることになる」と指摘。
韓国は堂々と日本侵略を新聞で語り、アメリカははっきり中国・北朝鮮・韓国は
日本を操ろうとしているから憲法改正汁、と提言。
郷に入りは郷に従え
これを徹底させれば欧州もまた違った道を歩んでいたでしょうが・・・いやいや,たらればは無しですね
個人的には受け入れないのがお互いにとって幸せではないのかと思っているのですが、
少子化や経済のためにはやむを得ないのでしょうか?
あと気をひかれたニュースをちょっと
ウクライナ大統領 日本との戦略的パートナーシップ求める
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050716-00000008-maip-int
ユーラシアが大く動きそうですね
ロシアから自立したいウクライナ、建て直しのために対立してきた中国に接近するロシア、
力をつけた中国がリーダーシップ発揮し、イスラム原理主義に手こずらされてる中央アジア国を集め提唱する「上海協力機構」
そして西側か中露のどちらにつくのか
大きく注目されるインドは上海機構に準加盟国として登録
いよいよ争いが先鋭化してきそうです
現地で出産して市民権を得るというシステム利用もあるみたいですが、お金のない移民は大黒柱が軍隊に入ってアメリカ人になるための試練を受けているとか。
古代ローマは軍役=市民権で、市民を拡大していったみたいですが、これと同じことなんでしょうか。
1)専門職・知識層等は、二世代以降において社会の中上層に位置して同化し、不良化しない。
2)単純労働者・経済難民等は、二世代以降は社会の底辺層に留まり、不良化しやすい。また、自己のアイデンティティを宗教等のナショナリズムに求める。
2)に関しては、日本においても、オランダにおいても、英国、ドイツにおいても、同じような問題だと思います。
皆さんの更なるご意見を伺いたいです
私にはイスラム過激派のテロは、日本における在日問題よりはむしろ、オウム真理教問題に近いように思えてなりません。
イスラム過激派を「イスラム系カルト」と見るのは間違いでしょうか?
単に移民との文化摩擦という点で考えるなら、異文化で生まれ育った一世との摩擦が最も大きく、二世以降との摩擦はじょじょに解消されるのが普通だと思われます。
日本の在日問題においても、やはり一世など老人世代に同化への拒否感が強く、三世あたりでは、結婚や帰化による日本との同化が進んでいるのが実情だと思えるのです。
ところがここにカルト宗教(または何らかのカルト的組織)が介入すると、様相が一変します。
一世の老人達より、さらに過激で先鋭化した宗教的テロ集団になるのは若者達です。それは、カルトに洗脳されるのが純粋で思い込みの激しい若年層主体だからだろうと思うのです。
日本の在日社会でも似通った現象が起きるのは、カルトの役割を総連や民団等が果たしているからではないでしょうか。
日系移民が移民先で比較的容易に同化できたのは、文化摩擦以外の、こうしたカルト的要素がほとんど無かったからではないかと思うのですが・・・
異なる民族観(倫理観)を持ち合わせた在日外国人なら、
日本にも大量にいますよ。
在日問題とオウムの問題は、構造的には同じだと思われます。
一時期、オウムと北朝鮮の関係とかいろいろ言われてましたが、そのことは置いておきます。
そういう瑣末なことではなく、上層部による構成員への洗脳類似行為とか、一般的な日本人の意識との乖離とか、その他にもいろんな類似点があると思います。違うのは、実際にテロを起こしたかどうかくらいじゃないかな。まあ、拉致もテロの一種だと考えれば、それもなくなりますね。
ところで、在日の日本への同化は進んでいるのでしょうか。
同化した在日は目立たないってことかもしれませんが、私にはとてもそうは思えないのですが。
日系移民については「郷に入っては郷に従え」を実践できたからってのも、大きいような気がします。こういうのも国民性なのかなあ。
本文を読んでの勝手な感想ですが、
これって文化戦争でしょうか。
文化(ルール・道徳・生活動作)の押し付け合いみたいな。
それぞれの文化が生きようとして、領土を取り合う。
こんな見方はどうでしょうか。
http://osaka.seinenkai.org/activity.html
http://www.denizenship.net/kadaibetu/kadibetu_08.html
70年代は70万人いたそうですが、現在は50万人を切っていて、在日同士の婚姻率は10%強、1世が死亡する、帰化者が年間1万人を超える、等の理由により減少しています。21世紀半ばにはいなくなるとも言われています。
そのため、日本籍コリアン運動などがあります。差別が存在していてくれないと困る人達というのがいるのが、とても嫌な感じです。
とはいえ、在日自身の方が、ナショナリティを保ちたいと思ってるのなら仕方ないんですが
(ナショナリティを大切にしたいなら、国に帰れと思ってしまいます)
911以前の世界貿易センター爆破事件もそうでしたが、一般市民を巻き込むテロリスト指導者は、本人が自爆するか2)が多い下っ端にやらせるかの差はありますが、1)の階層出身がむしろ多かったように思います。
1)や2)の間の貧富の差がテロに走ったり、アイデンティティを宗教や国に求める差になるではなくて、単なる周囲の社会環境の差でしょう。金持ちエリートでもがちがちの宗教学校をでれば、その教義にならった人物になります。
金のあるなしで2世代目以降が不良化するしないというのは、実はものすごい偏見かも。
>一世の老人達より、さらに過激で先鋭化した宗教的テロ集団になるのは若者たちです。
中国の「愛国無罪」しかり、
ロンドンテロの容疑者4人のうち、一人は18歳、もう一人は19歳、残りの二人も20〜30代前半の若者達でした。
あまりにも若い、若過ぎる。
本当はみんな子供を持ちたいんですが、先行き不安で、結婚したり、子供を持ったりすることに躊躇しているのです。バブルの時代は住宅難、不況の時代は雇用難と、政府は国民の不安と不満を解消する努力をしてこなかった(社会党的になって嫌な表現だけど)。そのツケが廻って来ているのです。
また、我々の本能は、日本における快適な人口密度を探ろうとしているのではないでしょうか。戦後にベビーブームが起きた様に、ニッチが空いて子供達が豊かに暮らしていけることを我々が実感出来れば、それを埋める様に人が増え始めると思います。まさか、日本民族が生物的に活力を失って、繁殖力が衰えたと考えてる方は居ないと思いますが・・・
これが本題ですが、移民を受け入れれば、日本人が占めるべき社会・空間的なニッチを移民が埋めることになります。そうすると日本人は減り続けることになるでしょう。「移民受入れ」を唱える人々は、前以ってソレを主導した実績によって、新日本人の支持を囲い込む事を願う反日勢力です。これこそ自ら乗る船の船底に穴を穿つ行為とも知らないで・・・
> 在日問題とオウムの問題は、構造的には同じだと思われます。
> (略)
> 違うのは、実際にテロを起こしたかどうかくらいじゃないかな。
> まあ、拉致もテロの一種だと考えれば、それもなくなりますね。
それはちょっと乱暴なカテゴライズです。在日=北朝鮮ではないし、在日の方にも色々あると思います。実際に「問題」を起こしている連中に関しては弁護する気はないですが、生活者としての在日の方を、テロ集団と同列視するのは如何なものかと。「それならば何故帰化しないのか」ということになりますが、人間には色々な思惑があって、色々な事情があるのだと思います。民団とか総連とかで積極的に活動している連中は、政治的な存在ですので一緒くたで良いかと思いますが。
> 日系移民については「郷に入っては郷に従え」を実践できたからってのも、大きいような気がします。こういうのも国民性なのかなあ。
でしょうね。以下、歴史モノによくあるフィクションですが:
濃姫が信長に嫁いでいく時に、斉藤道三が懐刀を渡し「信長はうつけ者とも聞く。もしそうならその刀で信長を刺せ。」というと、濃姫が「分かりました。しかしこの刀は、将来、信長殿と父上が戦うことになった時、父上を刺す刀になるかも知れませぬ。」と答えるシーンがありますね。この後、道三は「よくぞ云った!」と愛娘を送り出す寂しさを振り払って破顔します。これは史実ではない(濃姫も実在でないかも)のですが、この話に爽やかな印象を感じ、濃姫の答えに小気味良いものを感じるのは我々が日本人だからでしょう。
言論の自由を守る人は、他人の言論の自由を認めない人の言論をも守らなければならない分、圧倒的に不利だ。
人権を守る人は、他人の人権を蹂躙する人の人権をも守らなければならない分、圧倒的に不利だ。
いっそ朝日新聞と同レベルの下衆になれたなら、朝日新聞ごときに言いたい放題にはさせないものを。
いっそお隣の国と同レベルの恥知らずな嘘つきになれたなら、お隣の国のように自分のついた嘘を真実と信じ込むこともできようものを。
恥知らずにやり放題な相手に、なんでこっちばかりフェアでなければならんのだ、と思うことはありませんか?
プライドを守るというのは本当に難儀な事だ。
さりとて下衆にはなりたくもなし。
晩婚や非婚が多いのが少子化の原因らしいですね。
てか、自分も結婚の見込みなんて全く無いですが。
福祉政策だけで、案外どうにかなるんじゃないで
しょうか。どのみち子育てに金がかかりすぎる
状況は改善されるべき課題なわけで。
大体、戦前は人口が多すぎて外に進出してた
くらいなのに、たった60年で人口足りないから
外から入れましょうって話になるのは極端すぎる。
スタンの原理主義者はイスラム世界の英雄になりまし
たが、中央アジアで原理主義のドミノ倒しは起きなか
った。
むしろ、タリバンを倒した今、噴出している。
また、テロリストの持ってる自動小銃は中共から
確保した物、と聞いています。
結局のところ、原理主義のテロリストは、一部の
お金持ちの誘導するままにテロを起こしてる、反社会
的傭兵集団なのではないか、と。
ハッシシのかわりに、本来のイスラムから外れた
宗教を使った。
スレ違い、すいません。
イスラム原理主義テロの話が出ていたので。
最近、原理主義テロの話が、どうも現実から遊離し
ている気がしてしょうがないので。
少子化といっても今現在ニートと呼ばれる人達が何十万人もいるわけで、決して労働者が不足しているわけではないと思います。
労働者が不足しているのならニートを働かせればよくて、少子化が将来問題になるならその対策をするのが筋で、それでも問題が起こるなら移民を受け入れればいいのだと思います。
ただし、それを運用する戦術としては「管理→全入国者指紋採取など」「補助→日本社会への同化プログラムなど」の二本立てでアメとムチを駆使するしかないと思います。
我が国で「移民」と云えばやはり、中華街なんかが割と上手く行ってる例ですかね?
彼等は郷に入っては郷に従って、日本に同化して支那系日本人として普通に生活してますしね。
日本の中華街は、そこで消費活動を行う顧客の殆どが日本人(現地人)だと云う点で世界でも類稀なチャイナタウンなのだそうですね。
「在日」とはえらい違いですね。
日本は国土も広くないし、森林地帯が多くて人間の生息可能地域は先進国の中でも狭い方です。
国土に余裕があって移民を受け入れている国の真似をすべきではないと思う。
少子化も子供の教育に力を注げる+面も評価されるべきなんじゃないでしょうか?
私の住んでいる地域では防犯や育児支援策に民間レベルで取り組み始めています。
これらの取り組みが根を張り、結実して社会不安が落ち着きを見せれば出生率は上がるでしょう。
国家財政・雇用・年金・教育・犯罪増加etc.これだけ社会が不安定になる要素ばかりで出生率が上がるならば、それは国民が現在のことも将来のことも『何も考えていない』ことの証明となるでしょう。
良く考えているからの少子化だと思います。
社会不安が↑すれば、出生率は↓し、
社会不安が↓すれば、出生率は↑する。
日本人が不安を感じている社会が移民にとって住み良い社会とはなり得ず、結果日本の社会不安を増大させてしまうなら、勇気をもって移民に「No」と言うのも国民の権利だと思います。
残念ながら、有能な人材が日本に来て、日本人として生きてくれるとはとうてい思えません。
残念ながら、有能な人材が日本に来て、日本人として生きてくれるとはとうてい思えません。
最近の靖国参拝問題に端を発する中国での官製の反日デモや島根県の「竹島の日」制定に端を発する韓国での狂乱的とも思える反日行動に、これは一体どういう事かと、遅まきながら疑問を感じ、にわか勉強ではあるが、そこで見えてきたのは中国、韓国の驚くべき実相であり、これらの国にいかに無知だったか、と反省させられた。
わたしは、多くの日本人が過去の戦争への贖罪意識からか、中国や韓国、在日等によるいわれ無き糾弾に余りにも寛容であったように思う。そして、そのような日本人の姿勢が、同じ日本人の一部に、「あの戦争は一部の無知と野心から起こった…」などと他罰的に決め付けて自分は安全圏に逃げ、対外的にはすべて日本が悪かったと自虐的な姿勢をとるのを許してきたと思う。例えば、かって土井たか子が声高に「我々はいまだにアジアの人々との和解を手にしていないのであります!」と叫ぶように、国内にあってはいわゆる「A級戦犯」への弔い等を軍国主義への回帰と糾弾する他罰性歴史観を強弁し、中国などの恫喝には無批判に媚びる自虐性歴史観を生んだ欺瞞に満ちた反省のポーズを無意識の中で許容する寛容さで過ごしてきたように思う。そのような寛容さの根源は、過去に何があったのか、いわゆる「南京大虐殺」ひとつにしても、当然にあった事実として無批判に受け入れてきたためではないのか?
また、日韓併合にしても、朝鮮半島の当時の実相を知ろうとすることなく、漠然とした認識で韓国や在日の主張をある意味でやむを得ないものとして受け入れてきたように思う。しかし、竹島問題に対する韓国の狂乱的な行動に疑問を感じ、私なりに問題点を整理したところ、これまで日本は韓国にこのような理不尽な主張を許していたのかという義憤に耐えられない思いである。
http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/
共産党独裁政権の中国にしても、自国民の7000万ともいわれる殺戮にはダンマリをきめ込み、70年前にあったするいわゆる「南京大虐殺」について、犠牲者30万と欺瞞に満ちた政治的数字をでっち上げ、いまも北京の書店には関係本をところ狭しと並べ、反日感情の醸成に躍起である。
http://www.epochtimes.jp/editorial/9ping.html
このような中国政府の欺瞞に満ちた対日姿勢にもっともであると擦り寄る日本の政治家たちもいる。これら中国政府の日本に対する度重なる恫喝や、中国に媚びる政治家の存在は、ひとえに我々日本人の「過去に一体何があったのか?、事実は一体どうであったのか?事実のあくなき追求のもとに問題点を明らかにし、現在に生きる日本人があがなうべき事は一体何なのか?を明らかにする姿勢の希薄さが生み出していると思う。
終戦から60年を迎え、終戦前後に生まれた日本人も年金生活に入るほどに時間が経過しているのであるから、靖国参拝問題を捉えて「反省が足らん!」などいう中国の恫喝や、終戦を境に突然に戦勝国の一員になりすまし、竹島を不法占拠し、日本は過去への真摯な反省をと、声高に糾ぶ韓国の姿勢をもはや容認しない、そのような不寛容さの寛容を強固にすることが必要だと思う。それは、捏造した歴史にもとづく恫喝や糾弾は容認しないという国家姿勢の確立だと言える。
日本には在日の連中に対して日本国に対する忠誠を示すことを強要していないでしょう?
それは寛容の表れではなく日本人の前世代が無責任に我々に押し付けた未解決事項の一つに過ぎないのではないかと思います。
左翼思想って自分で責任だけは取りたくない連中のサボる口実だよね。
日本人の失業率高いのに移民受け入れとかバカみたい。治安対策も出来てないのに。
経団連は企業の利益しか考えてない。
>>きゃもさん
トルコ系クルド人だった気がします。
民主主義と寛容主義の素晴らしさを、こんな形で説明できるのは望外の至りです。
我々は、歴史的に様々なことがありましたが、民主主義の下に今生きています。故に、絶対に、決して、
>しかし、国の方針を一個人が発言してもあまり意味がない。
ということはありません。
一人一人が問題を認識し、政治的選択を行うこと、それこそが、民主主義なのですから。還元さんが今後の日本の問題の一つに気がつかれたことは素晴らしいことです。
そして、まだ気が付いていない人が周りにいるのなら、その人達に検証可能な、反駁可能な形でその情報を伝えることはもっと素晴らしいことです。それが、民主主義における『市民の果たすべき政治活動』なのですから。oribe さんが blog を通じてなされていることを、ごらんになれば明らかでしょう。
>今後は個人個人が戦略性をもって進むしかないのではないか
おっしゃる通りです。そして、もしなおも個人を超えた合意が必要な時。他の人の協力も得ながら行動しなければならない時、民主主義は我々に手段を提供しています。
自分の意見を公表し、仲間を募り、そして、正当な政治的意志決定の場に責任を持って参与すること。そして、法の下で多数派を形成し、決定を下すこと。
……そして、この手続きこそ我々が例え相手がオウムに対しても、イスラム過激派に対しても、朝鮮・中国至上主義者に対しても我々が保証していることなのです。法に従い、多数派の決定を尊重する限りにおいては。
我々は過去、オウムに参政の機会を与えました。
それを蹴ったのは彼らであって我々ではない。
少数派に対しても我々は手続きを解放しています。なぜなら、それこそが我々の、多数派である我々の意見をまとめる正当性だからです。
おそらく、反体制主義者は我々の良心に訴えかけるレトリックを用いてくるでしょう。あたかも、政治的意見を表明する権利は少数派にしかないかのように。
それは、誤りです。
我々は少数派の意見を、制度を通じて保証しています。保証することで、我々の多数派としての権利行使が、卑怯でないことを保証しているのです。
民主主義と寛容主義の素晴らしさは、我々が醜い多数派になっていないことを保証する、その一点にあります。粛々と、制度に守られた権利を行使する。まずはそこから始めることで、我々はテロリストにならずにすむ。
極個人的な意見で恐縮ですが、私は民主主義と寛容主義が好きです。
(追加)それ故に、少数派の権利擁護と民主的手続きの保全の原理に基づいて、我々は『慎重に』外国人地方参政権に象徴される「絶対少数派の政治への参与」を決めなければなりません。
彼らがカルト=自分たちの意見のみを重視する集団として我々の政治決定を尊重せずに彼らの決定のみを押しつけてくるなら、何のために彼らの権利を保障したのか分からなくなる。
同様に、最初から彼らに参政権を付与しない態度で臨む意味もまたありません。我々の社会が持つ一番貴重な精神を汚しますから。
故に、政治に参与したいと少数派が望む時、我々はその対価を要求し、両方の集団における民主的な手続きを経たことを確認するべきです。多数派の定めた法に従い、多数意見を尊重すること。少数派であることそれ自体にまつわる現象を差別視するのであれば、正当な言論の場においてその解決を要求する態度をまずは見せること。個人に対して個々に圧力を掛ける行為、すなわち広義のテロを停止すること。
これこそ、参政権の必要にして十分な条件だと思います。残念ながら、現下のオウム真理教、イスラム過激派、並びに朝鮮半島・中国大陸至上主義者とはこの点の合意がなされていないが故に、私は彼らに参政権を与えることを拒否しますが。
ですので、今回のオランダの場合は、イスラム教徒にイスラム教徒でない人間がイスラムの戒律に反する事をしても干渉しない、と言う教えを徹底させるべきでしょう。
そんな事を言ったらインドが滅茶苦茶になってしまいます。片方は豚を神聖視し、片方は牛を神聖視します。豚肉を食べた、牛肉を食べたで殺し合いになったらインドはあっと言う間に滅んでしまいますよ。
わしは政教分離は可能であるし、その道筋を日本が世界に示すべきだと考えています。そう言った意味で、現在のテロでごちゃごちゃになってしまった世の中に次ぎの平和への道筋を示す資格があるのは日本だと思ってます。何故なら日本以外に政教分離がしっかり出来ていて、国力がある国が他に思いつきません。
まぁゾクブッチー小泉にそんな壮大な役割は期待していませんが、誰か現れないかなぁ?
「そんなバカな!」の著者、竹内久美子氏は「子供を産みたがらない女性はあまり子孫を残さず、子供を産みたがる家系が子孫を残すのだから、近い将来、人口は必ず増加する」という説を唱えています。
身の回りを見ても、50代で既に孫が4〜5人いる人、70代で子供が3人いるのに孫が一人もいない夫婦など、確かに子供を多く持ちたがる家系というものが存在するようです。
しかし、私はこの説に疑問を持っています。子供一人あたりの養育費、教育費負担が昔に比べて重くなってきており、今後給料が上がるかどうかわからない状態で、子供を3人以上持つという事が非常に勇気ある決断になりつつある事。専業主婦の家庭より共働き家庭の出生率のほうが高いと言うが、その差はわずかであり、高額所得者の家庭では子供の数を増やすより、小学校から私学へ通わせて少ない子供に多額のお金をかける傾向にある事、などからです。
正直な話、日本の福利厚生では子供を多く持たずにいたほうが自由に仕事が出来るし、経済的にもラクです。極端な例えですが、子供の教育は社会全体で保障する女王バチと働きバチのような社会にでもしない限り、出生率が2.1を越える事はないのでは、と思ってしまいます。
この文明のリズムを破壊して無理に移民を招く事は、社会的な混乱をもたらすだけでしょう。
ヨーロッパ諸国の移民政策の失敗が良い例です。
尚、移住先の国の文化に同化する意志の無い人間は他国へ移住する資格は無いと思います。
そのような人間は自国に留まるべきでしょう。
イランでイスラム専制社会や北朝鮮で東アジア的専制社会を形成するのは勝手ですが、そのような社会における思想・体制を他国に持ち込んだり、導入を試みるのは侵略行為です。
尚、人口曲線と社会・経済体制については、以下の書籍にて記述されています。
人口減少日本はこう変わる 古田 隆彦著 PHP研究所
http://www.creage.ne.jp/app/BookDetail?isbn=4569631347
訂正をば、イスラムにおいて豚は神聖な生き物ではなく、穢れた生き物なのです。穢れているゆえに口にすれば、自らも穢れるという理由で食べないのです。
ヒンズー教徒が牛を神聖視しているのとは、意味合いが違うので確認しといてください。
ちなみになぜヒンズー教で牛が神聖なのかといえば牛が神様の乗り物だからです。
> 在日問題とオウムの問題は、構造的には同じだと思われます。
うーん、構造的には違うと思いますよ。
似ているのは、どちらも日本社会と摩擦を起しやすく親和性に欠けるという、表面的な部分だけではないですか?
“上層部による構成員への洗脳類似行為”といわれますが、オウムならともかく、在日の上層部とは一体何でしょう?
小野まささんが指摘されているように、オウムと北朝鮮が構造的に同じだというなら、同意出来るんですけど・・・
>tenkakuさん
そうですね。社会矛盾を真摯に憂える若者らしい真面目さが、カルトに利用されるのだと思います。どんな理想があるにしても、年若い同胞を利用するのは卑怯です。
移民政策には懐疑的であり、反対です。
「他文化共生」が先進国で奉られるのは、国家を溶解したいサヨク市民と、移民と関わりの無い世界に住みグローバル経済を推し進めたい資本家や、少子化対策を進めたい為政者などの高額所得階層が一致しているからではないでしょうか。
貧しく価値観のまったく違う移民との共生は、美辞麗句に包まれた幻想を追いかけさせられてるようなものです。
富山県では、パキスタン人と日本人の間で中古車販売からトラブルが起こってた事を背景に、コーランが破って捨てられる事件がありました。
当時の抗議デモに集まっていたパキスタン人の中には、報復の殺人を唱えました人がいました。
彼らはアルカイダのような過激運動を実践するような人達とは違い、ごく普通の人だったはずです。
それでも、外国で報復の殺人を唱える普通のイスラムがいる現実は恐ろしいものがあります。
また、『悪魔の詩』翻訳して殺された筑波大学助教授の五十嵐一氏の事件も忘れる事は出来ません。
彼等の中では、コーラン>>>外国の法(主権)なのです。
コーランを破り捨てた事は、モラルとしては低いと思います。
でも日本の法では、仏教経典も聖書もコーランも所詮「書籍」です。
イスラムの不寛容さ(に解釈された)身勝手さは、テロを生み出す温床になっているという事を認識できない彼等自身に問題があると言わざるを得ません。
イスラム教徒の中には、選民思想に基づいた差別をする人がいることも事実です。
コーランの前に信者は平等というのは教義としてはありますが、彼等の中ではアブラハムの子孫に近ければ近いほどヒエラルキーの上位というのが現実でもあります。
中東のイスラム>>>その他地域のイスラム>>>>>他宗教 大まかにこのような図式があるのです。
日本にいると分かりにくいのですが、海外ではイスラム教徒がアジア人に侮蔑的な言葉や態度をとることが、しばしば見受けられます。
(無論、イスラム教徒の全部とは言いません。)
笑ってしまいますが、同じ余所者同志なのに彼らはアジア人をより下に見る傾向があるようです。
竹内久美子の本は思いつきだけで書いているとしか思えないいい加減な代物ですからねえ。本家利己的遺伝子説のドーキンスが「この理論はこのように適用してはいけない」と口を酸っぱくして論じた例をことごとく実行してるんだもの。
同じ本の中で主張が食い違っていることなんかざらです。