2013年02月15日

ジョブスの教え「お客様は神様です」

スティーブ・ジョブスは、生前も今も「イノベーション」の象徴のように崇拝されていますが、彼の築いたアップル帝国は決してイノベーションの力のみで巨大化したわけではありません。

アップルが失いつつあるもの

アップルで長年働いていたというこの記事の著者は、ジョブス時代のアップルは決してイノベーティブではなく、アップルを押し上げたのは「イノベーションよりもむしろ、その徹底した任務遂行能力」であると述べています。同意します。ジョブスアップルはイノベーションを売りにはしましたが、イメージほどイノベーティブではありません。強さは他にあるのです。

自分は最近、イノベーションという言葉に疑念を持ち始めています。もちろん、個人も企業もイノベーティブであろうとするのは良い事です。しかしイノベーションはその他の欠点をカバーしませんし、それだけで競争を勝ち抜けるわけでもありません。最近のイノベーション熱は、イノベーションをあたかも特効薬のように礼賛し、地味な努力から逃げる口実化しているように思えてなりません。

例えばアップルの場合、イノベーションという派手なネオンサインに隠れて、「顧客第一主義」という泥臭い企業姿勢はほとんど語られません。割高のブランド品を売り、客の苦情など歯牙にもかけないイメージのあるアップルですが、実はそうではありません。ジョブス時代のアップルは顧客サービスの改善に全力で取り組み、アメリカでは、客の声に真摯に耳を傾け、製品の不具合を改善につなげるメーカーの代表的存在と見られています。

日本でそう見られていないのは、ブランド・メーカーに対する偏見に加えて、外資の宿命もあると思います。一般的に外資は下級社員にはマニュアルワークしか求めず、そのため客対応は日本企業に比べて機械的になりがちです。実は外資的組織は、想定外の不具合などのシリアスな案件は「本部」で対応しており、外国人の無責任下級社員は面倒な案件はすぐに本部に投げるのですが、外資の日本人下級社員は日本的職業倫理から案件を上に投げるのを嫌がります。アップルも例外ではありません。そのため自分の限られた裁量で問題を解決しようとし、「融通の利かない外資」になりがちなのです。

またアップルの場合、小売店に対する姿勢も誤解を助長しています。日本の家電メーカーは大手小売チェーンに対して腰が低く、例えばヨドバシカメラあたりで製品を買えば、いざ不具合が出た時はヨドバシに相談すれば一発です。しかしアップルは小売店に対する立場が強く、そのため小売店経由の苦情は効果がなく、また値引きもしてくれません。小売店パワーに慣れた消費者からすれば、お高くとまったアップルと見えるのもしかたありません。

しかしアップルの顧客サービスは実際に優れたもので、アメリカではPCメーカーの中で常にダントツの1位に選ばれています。日本でも、何の権限もないのに自分の権限で客をあしらおうとする下級社員の壁さえ超えれば、あれほどの大企業であるにも係わらず、原則に囚われない、人間対人間の対応をしてもらえます。

PCは大小の不具合が出やすいものですから、多くのメーカーは、「消耗部品は壊れるときは壊れますから、そこまで責任とれません」とか「データの喪失はお客様の責任ですから」とか「保証書に書かれた通りの対応しかできません」などと、時に明確に、時に言外に責任を回避しようとしがちです。しかしアップルは根気良く客の話を聞き、場合によっては驚くほど柔軟に商品交換に応じたりします。

しかも客の機嫌をとって終わりではありません。自分の場合、不具合交渉からしばらく後に、アップルは3年前の製品までさかのぼり無償部品交換を発表しました。返品された製品をきちんと精査し、客の温情に甘えて誤魔化すのではなくきちんと責任をとり、よりよい製品開発のための参考としているのです。

もちろんアップルの顧客サービスは完璧ではありません。日本人下級スタッフの勘違いぶりはその代表で、その壁を越えるのは本当に大変です。アップルには、日本人社員の特性を理解し、下級社員の教育にも力を入れてほしいものです。しかしいずれにせよジョブスアップルの成功は、イノベーションと並んで、顧客サービスを抜きにしては語れないのです。

イノベーションという念仏ばかり唱えていると、日本企業全般が顧客サービスにおいてアメリカに教えを請う日も、案外すぐそこかもしれません。


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2012年12月07日

マクドナルドのメニューの穴

マクドナルドが低迷しているそうです。

自分は最近いやにマックづいていて、過去2ヶ月くらい一度もマックに行かなかったのに、先月末から立て続けに3回もマックに通ってしまいました。牛丼もそうですが、ファストフードというのは、美味しい美味しくないの問題ではなく、定期的に無性に食べたくなるものです。

で、味音痴な自分は、その3回とも同じパターンで注文しました。チキンクリスプバーガー、ペッパーレタスバーガー、チョコパイ。それに、どこかで手に入れたタダ券でアイスコーヒーをつけて、ついでにチョコパイはクーポンで値引きしてしめて320円。これでお腹いっぱいです。マクドナルドにすれば困った客なのかもしれません。

巷では、マクドナルドの低迷の理由は、メニューをなくしたからだとか、低価格路線がイカンのだとか、その逆に高すぎるからだとかいろいろ言われています。しかし、いかに庶民向けのファストフードチェーンとは言っても食堂なのですから、売れない理由をマーケティング的に考える前に、まずは「味が悪いのでは?」と考えてほしいものです。

アメリカのファストフードチェーンの王様(と自分では勝手に思っている)タコベルは、2011年に商品表示に偽りがある(使用している肉が偽肉との疑い)として訴えられて、著しく評判を落としたのですが、2012年にV字回復して話題を呼んでいます。

業績回復の理由は新商品で、タコスのシェルにでかいドリトスを使った「ドリトス・ラコス」というやつが大当たりしたのです。1個100円くらいの商品で、自分はまだ食べたことはないのですが、どうやら癖になる味なようで、ツボにはまった人はついドカ食いしてしまうみたいです。体には良くなさそうですが。

日本のマクドナルドも、食堂の原点に帰り、まずはこれぞファストフードという中毒性のある商品開発に力を入れるべきではないでしょうか。そしてその値段は、ずばり190円にすべきです。

というのも、今回マクドナルドに通って、メニューを見てつくづく思ったのですが、マクドナルドの商品ラインナップは妙に歪です。

ボリ価格のセットメニューは無視するとして、単品メニューの品ぞろえがヘンなのです。100円、120円の低価格商品群から、その上の商品がいきなり300円前後にまでジャンプアップしてしまい、中間の200円マックがありません。自動車メーカーのラインナップが、軽自動車と300万円オーバーの車種しかないようなものです。

しかも300円以上の商品を選んでも所詮はファストフードで、100円マック×3のクオリティとクオンティティはありません。300円前後の商品を軸にして空腹を満たそうとすると、無料券でも使わない限り600円超えは確実で、それならお気に入りのラーメン屋で、トロトロチャーシュー入りの工夫をこらした一杯を食うほうが何倍も満足感があります。

もし、100円マックよりボリュームがあり、なおかつパンチのある味の200円マックがあれば、100円マックからアップグレードする客が続出し、またそれ以上の価格帯の商品との間に連続性も生まれると思うのですが…マクドナルドには200円マックを出せない理由でもあるのでしょうか?

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2012年12月01日

ナイジェリアの手紙のカラクリ

「ナイジェリアの手紙」というのがあります。世界的に有名なスパムメールで、「ナイジェリアの王子」などと名乗り、いかがわしい投資話を持ちかけてカネを振り込ませる詐欺メールです。

ナイジェリアの手紙は昔からあるあまりにバカげた手口なので、もはやネタ化してしまい、意図的に犯人の誘いに乗って逆に犯人を引っ掛け、バカな写真を撮らせて楽しむ人もいるほどです。

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しかし、ナイジェリアの手紙はなくなりません。犯人たちは相変わらず「ナイジェリアの王子」を名乗り、いかがわしさ満点のブロークン・イングリッシュで、ひと目で詐欺と分かる代わり映えのしないバカげた投資話を発信し続けています。

なぜ彼らは、あたかも「これは詐欺メールです」と自己紹介するかのような低レベルなスパムを送り続けるのか?マイクロソフトリサーチのコーマック・ハーリー氏は、この現象をとても興味深い観点から分析しています。

Why do Nigerian Scammers Say They are from Nigeria?

論文によれば、見え透いた内容のメールを送ることは、詐欺をするうえで極めて重要な役割を持っています。それは、騙されやすい「カモ」のフィルタリングです。

へたに巧妙すぎる詐欺話をばらまくと、食いつく人は増えるでしょうが、それへの対応に手間がかかります。しかもいくら熱心に対応したところで、実際にカネを振り込むところまで行く人は少数です。こうなると、いくら騙しても経費ばかりかかり、商売になりません。

だからこの手の詐欺では、ターゲットのフィルタリングが重要になります。騙されやすいカモだけに聞こえる笛を吹いて、カモだけを集められれば、そこにリソースを重点的に投入して、効率的に利益をあげられるのです。ひと目でそれと分かる詐欺メールは、カモを判別するフィルタリング装置というわけです。

実際、世の中にはとんでもなく騙されやすい人は相当数存在して、極端な話し、老人性痴呆の人などは、彼らをピンポイントで見つけられさえすれば、高確率で仕留められるはずです。オランダのセキュリティ会社の試算によれば、ナイジェリアの手紙のような投資詐欺の被害額は2009年で93億ドルにのぼり、その額は年々上昇しているといいます。

正直ナイジェリアの手紙の送り主に、そこまでの深慮があるとも思えません。しかしこの説は、ナイジェリアの手紙のようなプリミティブな詐欺手法が、より洗練された詐欺メールに駆逐されることなく生存し続けている理由として説得力があります。

考えてみれば、メール詐欺に限らず、あらゆる詐欺という犯罪の肝は、詐欺の手法そのものにあるのではなく、いかにカモを効率的に見つけられるかにあるのかもしれません。

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2012年01月17日

バルチック海運指数が暴落している件

バルチック海運指数(BDI)という指数があります。簡単にいえば、タンカー運賃の値動きの指数です。タンカーというのは、建造に時間がかかる一方で、未使用のタンカーを寝かせておくわけにもいかないので、世界の貿易状況を敏感に表すといわれています。景気が良ければモノが盛んに取引されてこの指数はあがり、需要が落ちるとこの指数はさがります。

さて、この指数が最近暴落しています。去年10月から50パーセント低下し、12月からはフリーフォールです。

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バルチック海運指数は、実体経済の状況を表す指数といえます。しかし、近年の株価は実体経済から乖離していますので、投資の参考にしにくいとされ、それほど注目されません。というわけで今、バルチック海運指数は、密かに暴落しているのです。

なぜ暴落しているのか、明確に説明できる人はいません。ある人は、貿易が落ち込んでいるのではなく、巨大タンカーの需要が減ったのだといいます。またある人は、中国経済がクラッシュしたのだといいます。BDIは、国家絡みで粉飾している中国経済の実情を反映する指数ともいわれているからです。

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2011年12月27日

「若者」はどこにいる?

最近いやに「若者」という言葉をよく聞きます。「若者たちの感覚をベースにした議論で、若者の支持を集めている」などという肩書きは最近のオピニオンメーカーに必ずついてくる常套句です。これほどまでに若者という言葉が売り文句として多用されるのは、ちょっと記憶にありません。

ところで、先日ウェブを廻っていて、幕末の志士たちはみんな若者だったという議論を見かけました。そう、伊藤博文にしても陸奥宗光にしても坂本龍馬にしても、みんな20〜30代前半の若者で、若い彼らが幕府を倒して維新政府を樹立したのでした。

確かに彼らは若年でした。しかし、幕末の若者と現代の若者を比べて、「今の若者は幕末の若者を見習え」などと言えば、なにかが大きくずれているような気がします。というのも、19世紀に生きた彼らは、自らを「若者」と認識していなかったに違いないからです。

19世紀と20世紀の節目は第一次世界大戦(1914〜1918)と言われていますが、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクは、過ぎ去った19世紀の世界を記した遺作「昨日の世界」で、19世紀と20世紀の大きな違いのひとつに、「若さ」に対する見方をあげています。

今日若さといえば、未熟者という悪いニュアンスもあるものの、それよりも、バイタリティや新鮮さという、ポジティブな価値が勝ります。だからこそ政治家は若さを売りにし、壮年の人は若作りに努力し、死ぬまで若くあろうとします。

しかしツヴァイクによれば、それは20世紀特有の価値観で、19世紀における若さはネガティブな意味しか持たず、若者たちはひたすら自らの若さを隠そうと努力したそうです。薄いヒゲを懸命に伸ばして豊かなヒゲを蓄え、シワを作り、意識して中年太りのようにお腹をでっぷりとさせ、必要もないステッキや老眼鏡を身につけて、なるべく年寄りに見えるように苦心したのです。

老いることに価値をおく儒教の影響を受けた日本も同じでした。幕末、明治期の古い写真に映る昔の若者たちが老けて見えるのは、彼らの内面の成熟度にのみ帰すべきではありません。昔の若者は若さを弱点と考えて隠し、努めて老けた身のこなしと装いをしていたのです。それは彼らが、20世紀的な意味でのプラスの価値を帯びた若さを知らなかったことの証です。19世紀以前の社会には、若さゆえの未熟者はいたかもしれませんが、「若者」は存在しなかったのです。

ところが、ここでとてもおかしなことに気がつきます。若さというものがプラスの価値を持つのならば、天然の若さを持つ若者の社会的地位は上昇するのが道理です。しかし現実の社会はそうなっていません。それどころか、幕末の志士たちのように、むしろ若さをないがしろにしていた昔の方が、若者たちは大きな仕事をしていたように見えます。

その理由は、たぶんこうだと思います。20世紀に入り、若さがプラスの価値を持つようになったのは、別に若さそれ自体の価値が上昇したのではありません。あらゆるものを商品化せずにおかない20世紀文化という文脈の中で、人間の商品化を示すひとつの事象にすぎないのです。

美しくてセクシーな女性を崇めるのが女性の商品化に過ぎず、女性の地位向上を推進するどころか、むしろ女性から活躍の機会を奪うのと同じように、若さの崇拝は若さの商品化に過ぎず、若年層から活躍の機会を奪うのです。

従って最近の「若者」バブルは、とても胡散臭いと言わざるをえません。確かに現代は歴史的な大変革の時代であり、古い殻を破るのは若い力であるはず、というイメージはあります。しかし、そういうプラスの価値を持つ「若者」という存在は、まさに今社会の変化を阻む20世紀的価値観の最たるものです。だから、「若者たちの〜」などという言説から生まれる変化は、せいぜい古い価値観の範疇におけるまやかしの変化、たとえば尾崎豊的な反抗により生じる教科書通りの変化に過ぎず、抜本的な変革にはなりえないのです。

幕末のような大変革を担うのは、新しい価値観を備えた若い世代であるに違いありません。しかしその変革の波は「若者」の中からは生まれないのです。「若者」などというのは、所詮20世紀デパートの陳列棚に並んだ商品に過ぎないのですから。

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2011年12月14日

生産衝動と新しい世界

世の中の見方にはいろいろありますが、メジャーな見方のひとつに、人を「生産者」と「消費者」に分けて考える見方があります。農作物を作る農家や、商品を生産して販売する企業戦士は生産者であり、それを購入する人たちは消費者となります。

たいていの人は生産者であると同時に消費者であるのですが、なかにはそうでない人もいます。たとえば泥棒は、何も生産せずに消費者のみであろうとする行為です。人には消費衝動があるので、ともすれば消費だけしたいと欲するようになるのです。泥棒まで行かなくても、少ない生産で大きな消費をしたいと思うのは、醜悪な態度ではありますが、人の経済活動の基本です。

では生産というのは常に苦痛や犠牲を伴うものなのでしょうか?生産と消費は非対称な行為であり、生産したいから生産するという生産衝動による生産活動はないのでしょうか?

もちろん人には生産衝動があります。衣食住楽に関するあらゆる物品を、人は報酬を得るためではなく、ただ喜びを得るために生産する習性を持ちます。通常趣味として行われている行為です。ただしそうして生産されたものは、消費者のニーズに合わせて生産されるわけではないので、なかなか商品にはなりません。従ってよほど稀なケースを除いて、趣味人は生産者にはなれず、生産の喜びを経済活動に結びつけられないのです。

ですから従来の経済思想においては、生産したいから生産するという生産衝動は、せいぜいオマケ程度の意義しか持ちません。市場経済というのは、消費したければ生産して稼げ、より生産すればより消費できるという、消費への欲望をモーターとしたシステムです。共産主義を極とした反市場経済思想は、その欲望を悪として強引に断ち切ろうとする思想です。

しかし、楽しいから生産して生産者となれる環境が整ったとしたらどうなるでしょうか?生産衝動により生産された生産物と、消費者のニーズを噛み合わせるシステムが生まれたとしたら、消費衝動のみに基づいた現在の経財観は時代遅れとなり、生産衝動を取り入れた新しい経財観が求められるようになるはずです。

一昔前なら、これは突飛な夢物語にすぎませんでした。しかし今日、現実に社会はそうなりつつあります。インターネットは、人々の生産衝動をモーターとし、そこに消費衝動がついてくるという転倒したシステムであり、そんなネットに社会は刻々と侵食されているからです。

それは、19世紀初頭の思想家シャルル・フーリエが思い描いた社会、生産の欲望と消費の欲望がきれいに噛み合わさり、競争原理による発展を維持しつつ、弱肉強食ではない理想社会に似ています。もし社会が自律的にその方向に進んでいるなら、それは歓迎すべき変化です。ただしいくらゴールが美しいとしても、その過程には困難が伴うはずです。

生産衝動と消費衝動という両輪でまわるネット的な経済システムの台頭は、消費衝動のみでまわる現在の市場経済の崩壊を意味するからです。だとすれば現在起きている市場の機能不全は、市場経済の自律的な調整局面などではありません。このまま穏便に新システムへと発展解消すると考えるのは、あまりに楽観的すぎると言わざるを得ません。

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2011年12月08日

バブル世代という神話

最近、バブル期に関する書き込みをよく見かけます。今と比べ、いかにバブル期がパラダイスだったか、バブル気分が抜けないバブル世代は始末に終えないなどなど。

しかし、バブル崩壊からかれこれ20年くらいたつためか、記憶が風化し、変な形で神話化されている印象があります。後世に違う形で伝えられるといやなので、これは違うなーと思う点を、バブル世代の一人として、あくまで一個人の見地からではありますが、記しておきたいと思います。

まず違うと思うのは、バブル期に社会に出た世代が、とてもいい思いをしていたように伝えられていることです。そんなことはありません。当時の若者、とくに男性は、バブル最大の被害者とさえ言えると思います。

確かに就職は楽でした。文句なしに売り手市場でした。自分から何のアクションをおこさなくても、家には山のように就職資料が送りつけられ、人気のない企業は、新入社員に車をプレゼントしたりして、必死に学生を惹きつけようとしていました。

しかしいいことはそれくらいで、何しろ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代ですから、上の世代は思い上がりがひどく、今のように若者にイノベーティブな発想を期待するような社会の空気はほとんどありませんでした。就職資料は妙に個性的であることを奨励していましたが、所詮は学生を惹きつけるためのコピーで、ビジネスに夢を託し難い時代でした。

では私生活の方は夢に溢れていたかというと、とんでもありません。インターネットなんてSF映画にも出てこない時代ですから、テレビや雑誌を通じてマーケッターの思いのままに踊らされ、望みもしないことにカネをつぎ込むのを余儀なくされました。

いくら景気がよくても、20歳そこそこの若者に普通カネなどありません。それなのに、モノは高ければ高いほどセンスがいいという風潮で、肩身の狭い思いをしないために無理をしてバーゲンでブランド品を買い、女の子をデートに誘えば、安い居酒屋などジョークにもならず、ホテルのレストランからお洒落なカフェバーというコースはなかば義務化されていました。

いつの時代も若者は貧しいものです。貧しさのレベルで言えば、バブル期の若者は、それ以前の時代の若者とは比較にならないほど恵まれていました。しかしあの時代は、貧しい若者が貧しい若者らしく貧しい若者ライフを満喫する余地はありませんでした。カルト信者かオタクと見られたくなければ、嫌でも背伸びをしてテレビや雑誌の煽る成金趣味なトレンディライフについていかなくてはならない、残酷な時代でした。

バブル期に最も恩恵を受けた世代は、バブル期に社会に出た世代ではなく、それより少し上、25歳から35歳くらいでバブルを迎えた人たちだと思います。まだ若く、それでいて一人前の社会人としてバブルを迎えた彼らは、会社から支給されるタクシー券と、使い放題の経費を駆使して、バブルライフを満喫していました。

ぼくはテレビ業界しか知りませんが、彼らのバブル期に対する郷愁はハンパではなく、仕事の進め方から後輩へのアドバイスまで、すべてバブリーでした。限られたリソースの中で最善の結果を求めるという発想を彼らはできず、「あらゆる可能性を探って最高の結果を出せ」などと常にイケイケな姿勢で、「オレはそのやり方でウン千万稼いだ。稼ぎたければオレの言う通りにしろ」などと迫られさんざん困らされたものです。

バブル期に社会に出た世代はそうではありません。空前の好景気で人手不足のときに、ペーペーとして社会に出た彼らは、とにかく早朝から深夜まで奴隷のように働かされました。ぼくは、活き活きとした新社会人生活を送る同級生たちの姿を思い出せません。なれないスーツに身を包んだ彼らは、みな一様に疲れ果て、やつれていました。そしてようやく後輩もでき、バブルライフをエンジョイしようとした矢先にバブルははじけ、へたに好条件で大量に雇い入れられていた彼らは、リストラ候補の筆頭とされたのです。

最近のヤングの中には、スイスイ就職できたバブル世代をずるい世代と認識している人も多いようですが、一概にそうは言えないのです。というか、本来若者というのは、若さという財産を除けば社会的に最も弱い存在であるという古今東西変わらない人間社会の道理からすれば、バブル世代をずるいと認識する考え方もまた、アンチバブルのようでいて、極めてバブル的で浮かれた考え方と言えます。

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2011年12月06日

資本主義の生みの親

前回のエントリーでぼくは、19世紀から20世紀のトレンドを、「製品化のトレンド」とか「製品化の波」という言葉で表現しましたが、通常この現象は「資本主義」と呼ばれます。しかし、インターネットにより破壊されるシステムとして資本主義という言葉を使うと、微妙ではあるけれども決定的にニュアンスが違う気がして、あえてその言葉を使うのを避けました。

この違和感はどこから来るのだろうと思い、資本主義という言葉の由来を調べてみました。すると謎はすぐに解けました。

資本主義という言葉を世の中に広めたのは、マルクスです。capitalist とか capitalism という言葉はそれ以前から時おり使われていましたが、その定義は曖昧でした。現代の使用法と同じ意味で使用し、それを固定したのは、1867年に出版された「資本論」であり、資本主義という言葉は、「資本論」の翻訳を通じて各国に伝搬したのです。

国会図書館の電子ライブラリーで調べると、資本主義という言葉を使用した日本で最も古い書籍は明治39年(1906年)出版で、それすら、「資本(本位)主義」という表現であり、資本主義という語彙のなじみのなさを伺わせます。以降、資本主義という言葉はたくさんの本で使われていくことになりますが、戦前から戦後にかけて、そのほぼすべては、階級闘争の観点から共産主義と対で語られたものです。

18世紀の思想家アダム・スミスのことを、よく「資本主義の父」などと呼んだりしますが、スミスは資本主義など知りませんでした。資本主義を発見したのはマルクスであり、共産主義により克服されることを運命づけられた概念なのです。

だから資本主義を壊すなどと言うと、浮かんでくるのはその対義語としての共産主義です。今ある経済システムを資本主義と定義したら最後、共産主義の世界観にとらわれてしまうのです。20世紀初頭にはすでに時代遅れな思想と見られていたにもかかわらず、今日までも影響力を持ち続ける共産主義の力の源は、共産主義思想自体の魅力というよりも、資本主義を発見したことにあるのかもしれません。

言葉というのは、このように非常に強力な力を持つのです。

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2011年12月05日

脱製品化時代の英雄

スティーブ・ジョブズは、超特大級の偉人として世界中の人々から惜しまれて逝きましたが、彼は時代の先端をゆく飛び抜けたクリエーターであったわけではなく、大ヒット製品を次々と生み出したスーパービジネスマンでした。そんな彼の信奉者は、とくに若い世代に多いと言われます。金満企業家を憎むオキュパイ・ウォールストリートに参加している若者たちも、なぜかジョブズだけはリスペクトしているようです。

しかし、彼のようなビジネスマンを、若い世代がまるでロックスターのように崇拝するというのは、過去にあまり例のないことです。ジョブズが憧れていたソニー創業者の盛田昭夫もスーパービジネスマンでしたが、99年に彼が亡くなったときに大騒ぎしたのは「プレジデント」を購読するような層をはじめとした円熟した社会人であり、よほど慧眼な者を除けば、若者はさほど関心を持ちませんでした。

ジョブズが若者にウケる理由は、ジョブズが盛田の一歩先をゆく製品化センスの持ち主であったからかもしれません。ジョブズの生み出した最高の製品は、マッキントッシュでもiphoneでもなく、「スティーブ・ジョブズ」であったという点は見逃せないと思います。しかし、それだけではない気がします。ジョブズ信仰は、ジョブズが世の中を手玉に取ったからという側面の他に、世の中の方が変化し、ジョブズのようなスーパービジネスマンをロックスターにする土壌ができてきたという側面もあると思うのです。

産業革命以降の世の中には、あらゆるものが製品化されていくという大きなトレンドがありました。自分を含むすべてが数字、カネに置き換えられていくということです。このトレンドは、大衆を内側から突き動かすマスメディアが完成するといっそう強くなりました。戦争で言えば、英雄が活躍した騎士道、武士道の時代から、顔のない兵士が巨大な軍隊の部品となりミート・グラインドし合う時代に変化したということで、人々は人間性を否定されて、数字、歯車として生きることを強いられたのです。

そういう時代には、トレンドの手先として人々に製品化を促すビジネスマンは英雄にはなれません。腕のいいいビジネスマンは悪意に満ちた詐話師でなくてはならず、英雄になれるのは、ないがしろにされる人間性を象徴する、ギャングや狂人やヒッピーといったアウトサイダーたちであり、またもてはやされる思想は共産主義や環境主義や神秘主義でした。

とはいうものの、いくらアウトサイダーをもちあげたところで製品化の猛威は食い止められません。トレンドに対する反抗は、世間に受け入れられたとたんにその行為自体製品となり、それに気づいたビジネスマンの方も、アウトサイダーであることをセールスポイントにして商売をし始めます。すべてを製品化する激流はそれほどまでに逃れようのないもので、世の中がその諦念に至ったのは、1970年代の終わり頃のことだと思います。パンクロックの仕掛け人マルコム・マクラレンは、ゴミをゴミと公言して大衆に売りつけて大成功しましたが、ゴミですら製品化せずにはおかないトレンドの絶対的パワーを露わにし、反抗することのバカバカしさを印象付けた出来事でした。

以来人々は表立った反抗をあきらめ、ただそういう世界をシニカルに見つめながら製品として社会生活を過ごし、個人生活という小さな殻の中でせめてもの人間性を保とうとしてきました。ところが、それを変えたのがインターネットの普及です。

インターネットというのは、それまで顔のない数字にすぎなかった人々に人格を付与してしまうシステムです。近代以降のビジネスは、人々を塊としてとらえ、その行動を数値化することで利益をあげてきましたが、ネットではそうはいきません。おそらくネットで利益をあげるカギは、それぞれ人格を持つユーザーに、いかにして人間らしく活動できる場を提供できるかにあり、人を数値化してコントロールしようとする従来のやり方は最も避けるべき愚策です。要するにインターネットは、過去200年あまり続いてきた製品化のトレンドをぶち壊してしまうシステムなのです。

そんな脱製品化の新トレンドは、2000年代に入るといよいよオフラインの世界を侵食し始めました。長らく人々を息詰まらせてきた製品化の波は、もはやそれから逃れようのない怪物ではありません。攻守は交代して、いまや脱製品化の波にのまれてゆく弱い存在へと堕しつつあります。

そうなると、ビジネスマンの立場も変わります。かつて人間性の蹂躙を嘆いた人々は、いざ実際に人間性復活の可能性を前にしてみると、今度は製品としての自分が失われることに不安を覚え始めました。ここにビジネスマンが英雄となれる余地が生まれます。20世紀の英雄は、不条理のマントをはおった人間性の守護者でしたが、21世紀の英雄は、合理的でプレゼン上手な製品化の守護者なのです。

スティーブ・ジョブズは、そんな変化する時代に現れた最初の英雄的ビジネスマンなのかもしれません。彼は真の意味での先駆者ではなく、脱製品化という新しい怪物を前にして、製品化にひとつの生き残りの道を示したという点においてイノベーターなのです。あるいは。

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2011年01月19日

王様の耳はロバの耳2011

昔々、冷酷な王様がいました。王様には秘密がありました。王様の耳はロバの耳だったのです。傲慢な王様はかつて神様に立て付き、その罰として耳をロバの耳にされてしまったのでした。王様はその恐ろしい秘密がばれるのを恐れ、いつも頭に布を巻きつけて、念入りに耳を隠していました。しかし床屋にだけは隠すことができませんでした。年に一度髪を切る王様は、床屋を宮殿に呼びつけて髪を切らせると、そのたびに床屋を殺していたのでした。

その年も髪を切る時期がやってきました。指名された若い床屋は、泣き叫ぶ母親に別れを告げて、覚悟を決めて宮殿に参じました。床屋は、王様と二人だけの部屋で、頭から布を解いた王様の髪を刈りはじめました。そして耳のところまで刈りすすめたとき、床屋は恐ろしいものを見てしまいました。若い床屋は、どうして床屋が生きて帰れないのか、その理由を悟りました。

とそのとき、宮廷のドアがガタンと開きました。そこには、衛兵に抱えられた床屋の母親の姿がありました。母親は、息子を救いたい一心で城にのりこんできたのです。「王様、どうか息子をお助けください。親一人子一人の身で、一人息子をなくしたら、わたしは生きていけません。どうしてもというのであれば、息子のかわりに私の命をお召しください」

衛兵に殺せと指示を出しかけていた王様は、それを聞いて考えました。「若い床屋だけならともかく、このみじめな母親まで殺してしまったら、怒った領民は何をするかわからぬ。ここは慈悲深いところを見せておくのが得策かもしれぬ」

王様は床屋に言いました。「よろしい。母親をつれて家に帰るがよい。ただし、おまえがここで見たことは絶対に他人に口外してはならぬ。もし約束を破れば、わかるな」

床屋は王様に感謝し、母親とともに家に帰りました。

それからしばらく、床屋の親子は命があることに感謝しつつ幸せに暮らしました。また王様も上機嫌でした。床屋を許した翌日、鏡を見ると、ロバの耳がすこし小さくなっていたのです。善い行いをすれば、神様が罰を軽くしてくれる。そのことに気づいた王様は、それまで毎週のように実施していた公開処刑をやめ、領民に施しをするようになりました。ロバの耳はすこしづつ小さくなっていきました。

しかしそんな日々は長くは続きませんでした。若い床屋はふさぎ込みがちになり、やがて寝こんでしまったのです。様子を見に来た町の長老に、床屋はいいました。「苦しいのです。頭の中に他人に言えぬ秘密があって、口から出ようとするのです。この秘密を出してしまわないと、正気でいられないのです」

長老は言いました。「ならば町外れの森に行けばよい。森をずっと進んでいくと、開けた場所がある。そこに穴を掘って穴の中にすべて吐き出せばよい。おまえにはまだ教えていなかったが、心が落ち着かない町の人は、みなそうしているのだよ。どうしたわけか、最近そういう者が増えて困っているのだがね」

話を聞いた床屋は、一目散に町外れに行き、森の中を進んで行きました。すると開けた場所に、たくさんの穴があいていました。ひとつの穴に頭を入れてみると、中にはこんな声がこだましていました。「町の徴税人はワイロをとっている」別の穴に頭を入れると、今度は「長老は酒屋の女将と浮気をしている」とこだましていました。

ひとしきりいろいろな穴の声を聞いた床屋は、意を決すると新しく穴を掘り、力のかぎり叫びました。「王様の耳はロバの耳!」そう叫ぶやいなや床屋の頭はスウッと軽くなりました。足取りも軽く、床屋は町に帰りました。

それからしばらくしたある日、森に頭を軽くしに行っていた屋根葺き屋が町に帰ってきて言いました。「ある穴に首をつっこんだら『王様の耳はロバの耳』って聞こえてきたんだが、あれは本当なのかね?」

家具職人が言いました。「そういえば王様はいつも頭に布を巻いてるな。信ぴょう性ありだな」

パン屋が言いました。「オレもそう思う。だが誰が王様の耳を見たのかね?」

皮なめし屋が言いました。「床屋が臭いな。あいつこのあいだ城に王様の髪を切りに行っただろ。王様の髪を切りに行った床屋はいつも帰って来ないのに、あいつは帰ってきた。てことは、王様と約束したんじゃないだろうか。誰にも話さないとね」

それまで黙って話を聞いていた長老が言いました。「間違いない。あいつは他人に言えない秘密があると言っておった。しかしまさかそれが王様との約束とは思わなんだ。約束を破るだけでも人として許されざる行為だが、王様との約束を破るとあれば一大事だ。この町の住人として、放ってはおけぬ」

長老たちは床屋に押しかけました。口をつぐむ床屋を縛り上げると、「白状しろ!」「みんなに詫びろ!」と叫びながら石を投げつけました。ほどなく床屋は絶命しました。長老たちは、泣き叫ぶ母親に言いました。「彼を許すことは、町のみんなを苦しめることになるのだ。あなたが今泣いているのも、あの男の不徳がゆえ。どこまでも親不孝者よ」

続いて長老たちは城に向かい、王様に面会を求めました。一行を柔和な笑顔で迎えた王様に、長老は言いました。「王様、床屋のやつめがあなた様との約束を破り、王様の耳がロバの耳であると言いふらしておったことはお耳に入っているでしょうか?」

それを聞いたとたん王様の表情は青ざめ、激しい怒りに身を震わせはじめました。「あんな男を信じたわしが愚かだった。親子ともども八つ裂きにしてくれる!」と王様は思いました。しかし王様は懸命に冷静を装い言いました。「もちろんとっくに知っておる。で、おまえたちはなにしにここに来たのだ?」

長老は言いました。「さすがは王様、お耳が早い。信用を裏切られた王様のお気持ちは、われわれにもよくわかります。しかしご安心ください。慈悲深い王様の手を、人間として最低の義務さえ守れない下劣な者の血で汚す必要はもうありません。われわれ民衆の問題は、われわれ自身で解決いたしました。そのことをご報告にまいったのです」

それを聞いた王様は、しばらく考えてから問いました。「おまえたちは、余の耳をどう思う?」

長老は答えました。「王様の耳はロバの耳。それがどうしたと言うのでしょうか。むしろ大きくて長い耳は、君主としての美徳ではありますまいか」

王様はニヤリと笑うとこう言いました。「お前たちは何か勘違いしているようだが、余はあの男とは何の約束もしておらぬ。余の耳はロバの耳などではないからだ。にもかかわらずおまえたちは、余の耳をロバの耳だと言う。これは許されざる王への侮辱である」

翌日、長老をはじめとする一行は八つ裂きにされました。久しぶりの処刑を見ようと、処刑場はたいへんな人出でした。森の穴は町民により埋められ、以降、不吉な森に近づく者はありませんでした。

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2011年01月10日

経験と肩書き

もうかなり前になりますが、某公共放送局の休憩室で、ベテランの記者と20歳そこそこの女性ADが、報道のあり方について議論しているのを傍から聞いていたことがあります。

普通はそんな凸凹コンビで議論になどならないのですが、議論好きで若者に媚びたところのある記者と、ステレオタイプそのままの「空気の読めない自己主張の強い帰国子女」だからこそのディベートでした。

それはある突発的大事件を特別枠で放送するさなかのことで、たしか彼女は番組の基本的な報道姿勢に異議を唱えていたと思います。そしてディベートは完全に彼女の勝ちでした。

若いぺーぺーにこてんぱんにやられるベテランの姿に、ぼくを含むその場に居合わせたスタッフは苦笑をかみ殺していたのですが、容赦のない彼女は追撃をやめません。番組の報道姿勢に問題があると認めるのなら、ベテラン記者の立場でそれを変更しろというわけです。記者の方は顔を赤くしながら言い訳していましたが、最後にぶちきれてこう捨て台詞を残して場を去りました。

「オマエは戦場取材をしたことがあるのか?オレはある。何にもわかってないくせに偉そうな口をきくんじゃない!」

言うまでもなく、彼は手段と目的を取り違えています。なるほど現場取材の経験は重要ですが、なぜ重要かといえば、現場を知らない人にはなかなか持てない知恵を得られるからです。そしてその知恵を何らかの形で表現できてはじめて、「さすがは戦場取材経験者ですね」となるわけです。肝心なのは知恵であり、すべての経験はそれを得るための手段にすぎません。

ところが、こういうごく当たり前のことを、報道記者というインテリで、しかも経験豊富な年輩者でさえ勘違いしてしまうのです。いや、彼も頭ではわかっていたに違いありませんが、体で理解できていないのです。だから頭に血が登ったときにポロリと本音が出てしまったわけです。

取材にしても何にしても、経験することはとても大事です。しかし、経験することの大切さを説くがあまり、彼のように、経験を手段ではなく目的と取り違え、経験を肩書きとしてとらえてしまうケースは多く見られます。

経験を肩書きとしてとらえるのは、必ずしも悪いことばかりではありません。履歴書を書くときには役立ちますし、「オレはこれだけ経験したんだから大丈夫」と、自己暗示をかけて自信を持てるようになるという点においても大いに有用です。しかし同時に、たぶんそれよりも貴重なものを失う可能性を覚悟しておくべきです。

経験という肩書きで自分を計る習慣をつけると、他人をも肩書きで見るようになり、その悪癖は、もしかしたら死ぬまで抜けなくなるということです。

ぼくは多くの人と同様、意識してそうしないように気をつけていますが、少しでも気を抜くと、ついつい人を肩書きで判断してしまい、あとでそれに気づいて暗澹たる気分になります。意識することなしに、肩書きというフィルターに惑わされずに人を見れる人は、小さな子供をのぞけばとても稀少です。ぼくはこれまでの人生で、そういう人を2人しか知りません。しかもそのうち1人は身近な人ではありません。

「他人を肩書きで見てはいけない」というのは倫理の問題ではありません。ひどく損をするからよくないのです。感性が鈍り、大事な情報を見落とし、まわりに流されて騙されやすくなります。また、肩書きを持たない人を見下す一方で、肩書きを持つ人を同じ人間として評価できなくなります。見下すにしろ見上げるにしろ、リスペクトを欠くようになるわけです。そして人をリスペクトできない人は、リスペクトされません。

なにかと経験至上主義の世の中ですが、経験はあくまで手段にすぎません。そして手段と目的を取り違えたとき、経験は人生をつまらないものにする麻薬に変わるということを意識しておくべきだと思います。すごい経験をした人は案外たくさんいますが、経験という肩書きに惑わされない人は本当に稀なのです。

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2010年01月16日

未来はネットか中国か

グーグルが中国に絶縁状を叩きつけました。

A new Aproach to China

グーグルが象徴するネットと、桁違いの規模で新たな労働者と消費者を産出する中国は、20世紀末から現在に至るまで、世界の有り様を激変させてきた2大因子です。現代に生きる人間は、その2つの因子に背を向けて生きることはできません。

ネットと中国という2大因子自体も、これまではお互いにお互いを利用し合ってきました。いかにネットの力が革命的であっても、中国という市場を無視しては成り立たない。逆にいかに中国が強大であっても、ネットを無視しての成長はない。というコンセンサスがあったわけです。

ところがネットというのは、あらゆる「権威」を破壊するシステムですから、権威というシステムにより数をパワーに変える中国とは、本来根本的に相容れません。まったく相容れない2つの因子が無理な妥協をしてきたというのが、これまでの流れでした。

今回のグーグルの動きは、その関係を精算するものです。

これの意味するところは、「未来はネットと中国にある」という風に、現在漠然と一緒くたにして考えられている未来観の崩壊です。「21世紀は中国の時代だ」という見方と、「21世紀はネットの時代だ」という見方が結合せずに、相反する見方として対立するということです。

この対立は、表面的な政治体制の問題だけにとどまりません。

もし、ネットと中国の勃興が同時期ではなく、仮にネットのみ勃興していたとしたら、ネットにより駆逐される旧型産業は逃げ道を失い、社会はより急激に、それこそ革命的な変化を迫られたはずです。その意味で中国は世界に新たな巨大市場を提供することにより、古い社会を延命させるバッファーの役割を果たしてきたともいえるのです。

今回のグーグルの決断は、社会のあり方を根本から変える新しい波と、中国を希望の綱とする古い価値観の本格的な衝突の到来を予告するものかもしれません。

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2010年01月12日

Weather is not Climate.

ヨーロッパ、北米、インド、中国、キューバ・・・、この冬北半球は、各地で数十年ぶりという歴史的な大寒波に襲われています。こうなると思わず言いたくなります。

「地球温暖化はどこへ行った!」

しかしそれは早合点というもの。そこで欧米の専門家たちは、知的レベルの低い愚民たちがそう考えないようにこう訴えています。

"Weather is not climate!"

天気と気候は違うというわけです。そりゃそうです。一度や二度の異常気象と、長いスパンで見る気候変動を結びつけて語るのは愚の骨頂。窓から空を眺めるだけでは、気候変動なんて語れるわけありません。もしそんな人がいたら、自分はバカだと告白しているようなものです。

ところが世の中にバカはいるもので、過去にそういう愚かな発言をしてきた人はたくさんいます。


「ルイジアナを襲ったカトリーナと呼ばれるハリケーンの本当の名は地球温暖化だ」
ー環境活動家ロス・ゲルブスパン(2005年、米南部を襲った巨大ハリケーンについて)

「環境保護を怠ることで、米大統領はカトリーナのような自然災害による経済的、人的被害に目を背けたのだ」
ートリッティン独環境相(2005年、米南部を襲った巨大ハリケーンについて)

「我々は、地球温暖化の最初の影響を目撃し、苦しんでいるのだ」
ー気象学者エルヴェ・ル・トルー(2006年、欧州の猛暑について)

「昨日ミャンマーを襲ったサイクロンの死者は1万5千人を越えてさらに増え続けています。・・・私たちは、科学者たちが予想してきた地球温暖化の結果を目撃しているのです」
ーアル・ゴア(2008年、ミャンマーの巨大サイクロンについて)

「やっぱり大変な事が起きている。因果関係はまだはっきりしないが、佐用町の大水害もゲリラ豪雨も東京や九州北部、山口の災害もそうだ。明らかに温暖化とつながっている異常気象があるじゃないですか」
ー古舘伊知郎(2009年、頻発する豪雨について)


以上は、ほんの一例に過ぎません。

ぼくは気象学者ではありませんから、地球温暖化について科学的な議論をすることはできません。しかし、こういう発言をして平気でいる人は、バカなのか、厚顔無恥なのか知りませんが、いずれにしても信用できません。それは科学以前の問題です。

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2009年08月07日

Kiss them goodbye

iphone を手にしてから、待つことが苦痛でなくなりました。stanza という無料の読書ソフトを入れて、無料電子図書館のプロジェクト・グーテンベルクから古典をいくつかダウンロードしておいて、暇になると読みます。文庫本を持ち歩いてもいいのですが、かさばるし高いし、それに iphone の場合、その気になれば何百冊もの本を持ち歩けるわけで、単に読書というよりも、大きな書店で立ち読みしている感覚というか、知に囲まれて守られている感じで、なんだかとても落ち着きます。

そんなわけで先日、stanza で何とはなしにドストエフスキーの「大審問官」を読みました。言わずと知れた「カラマーゾフの兄弟」の中の作中作で、この長大な作品のエッセンスはこのパートにあるなどと言われています。

「大審問官」を読むのは20年ぶりくらいで、当時はたぶん、哲学的な感想を持ったのだと思います。しかし今読むと、ぜんぜん哲学的ではなく、むしろ風刺、それも今の世のマスメディアのあり方に対する風刺にも読めて、すんなり楽しめました。

「大審問官」というのは、「カラマーゾフの兄弟」の登場人物である無政府主義者のイワンが、純朴なキリスト教徒である弟のアリョーシャに話して聞かせる自作の寓話で、舞台は、魔女裁判絶頂期のスペインです。そこに唐突にキリストが復活するのですが、異端審問所の審問官はキリストを逮捕して、キリストの過ちを滔々と責め立てます。

審問官によれば、ジーザスはあまりに人間を過大評価していて、人間にはとても背負いきれない「自由」を要求して人間を苦しめ、世の中をハチャメチャにしてしまいました。一方審問官たちは、「自由」という過大な重しに苦しむ人間たちを哀れに思い、人間を愛するからこそその負担を一身に引き受け、弱い人間たちを幸せにしているといいます。

自由の重荷を解かれた人々は歓喜にふるえ、審問官たちに感謝するとともに怖れ、「やがて彼らは我々のわずかな怒りにもビビるようになり、知性は衰え、女子供のように涙もろくなる。だが我々の教えにより、悲しみは歓喜の歌に変わる。そう、我々は民を奴隷のように働かせる!しかしその代わりに彼らは子供のように無垢で、笑いと喜びに溢れた人生を送れるのだ」

とんでもない奴です。兄の話を聞いた無垢なアリョーシャも、異端審問官を悪意に満ちた権力の亡者と呼び、そんな考えを持つのは反キリスト者だと言います。するとイワンは大笑いし、「どうしてそう決めつけられる?彼らは誰よりもキリストの教えに忠実であろうとし、神に近づこうとして必死に努力したんだぜ?」と逆に問い返します。そう、審問官は、善を追求した果てに、善の塊として悪に到達していたのでした。

ドストエフスキーがこの作品を書いたのは19世紀の終わりで、社会を導く宗教の権威がいよいよ傾きつつある時期でした。新聞やテレビのマスメディアは、20世紀の教会のようなものですから、今この作品に妙な同時代性を感じるのは当然かもしれません。

プロジェクト・グーテンベルクには、残念ながら日本語訳の「カラマーゾフの兄弟」はなく、日本語で読むには文庫版しかありません。かつての日本語訳は、悪文の代表のように言われて読むのに苦行を強いられたものですが、最近出た訳書は読みやすいそうです。いずれにしても全部を読むといやに長いので、「大審問官」の部分だけでも読んでみてはいかがでしょうか?
カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)亀山 郁夫

おすすめ平均
stars村上春樹にも通じる普遍的な問い
stars非常に読みやすい新訳
stars人間の裸形
stars深すぎて手に負えない!?
stars海外文学などに親しみのない人たちへ

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ジーザスを火あぶりにするつもりの審問官。審問官の糾弾に対してきょとんとして何も答えないジーザス。2人のその後はどうなるのか?結末はここでは書きませんが、結構意味深です。

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2009年08月04日

責任のありか

納得できない美徳

「自分の仕事が片付いたらそれで終わりと思わない!自分の仕事が早く終わったら、まわりを見て同僚の仕事を手伝う!そこを忘れないでください!仕事で大事なのは助け合なんです!」

某公共放送の某番組の忘年会で、管理職についたばかりの友人がそう挨拶すると、場は拍手喝采に包まれました。

彼は何事にも一生懸命で、思いやりに溢れたすばらしい人間です。でもその発言には、そしてそれをすばらしい発言として無批判に受け入れるまわりのスタッフにも、ぼくは気分悪くなりました。

これはあくまで経験に基づく個人的な感想ですが、仕事場で一番気分がいいのは、自分の仕事が片付いて、別の人間の仕事に口出ししているときです。責任から解放されて、いつでも逃げ出していい状況で人にアドバイスするのは、最高の気分です。上から目線でさんざんアドバイスして、成功すれば自分の手柄にもなりますし、失敗すればそいつの責任。遊ぶ時間は削られますが、悪くないトレードオフです。

立場を逆にしてもそうで、仕事をしているとき、その仕事に責任を持たない第三者に口を出されることほど迷惑なことはありません。責任を持たないだけに、評論家のノリであれこれと非現実的な意見をプレゼントしてくれ、そのくせ本当に面倒なことになると、放り出して逃げてしまいます。結局彼らは、仕事が泥沼にはまっているときに本当にして欲しいことーー失敗の責任を分かち合ってくれることはしてくれません。

ですからぼくは、彼の意見にも、またそれを美徳として受け入れる人たちにも納得できませんでした。

日本の仕事環境というのは、このように「責任」という概念を考慮せずに無闇に助け合い精神を賞賛する傾向があるように思います。


「責任」を軽視する世界

映像制作の現場で指揮系統のトップは、映画なら監督(ディレクター)、テレビならプロデューサーかディレクターです。しかし日本では、カメラマンを始めとする技術職はもちろん、下手すると底辺のADまで、ディレクターに意見するのは日常茶飯事です。実績と威厳のあるディレクターには誰も異議を唱えませんが、経験不足で迷いのあるディレクターともなると、誰も言うことを聞いてくれません。

異議を唱えるスタッフたちは、決してわがままなのではありません。まさにともに支え合う助け合い精神の現れで、おかしな判断をしていると思われるディレクターの指示に盲従するのは、職務怠慢だと考えているのです。しかし実際には、その作品の制作に最初から最後まで係わるのはディレクターだけであり、まわりから「もっともな意見」をプレゼントされたディレクターは、より一層方向性を見失って、泥沼に落ちていくことになります。そして当然スタッフたちは、その失敗に対して責任を負うことはありません。

こういう下から上への責任範囲越境行為は、上から下への際限のない要求拡大と同根です。上の人間が下の人間に下した命令に責任を持つなら、あり得ないことだからです。


「責任」を重視する世界

以前アメリカでアメリカ人スタッフと仕事をしたとき、ぼくはそのことを痛感しました。

アメリカの場合、意外かもしれませんが、指揮系統のトップにいる人間の指示には、スタッフは異議を唱えず忠実に従います。もしディレクターが頼りにならない人物で、明らかにおかしな指示をしたとしても、自分の責任範囲を意識して、日本のように安易に口答えしません。

ぼくがクライアントのような立場でロケに帯同しているとき、「ここは絶対にマイクをセットアップしてから撮影すべき」という状況がありました。しかしプロデューサー(アメリカのテレビ界では日本のディレクターにあたる役職はプロデューサーなのです)はそうしようとせずに、「ロール!」と撮影を開始しようとします。こういうとき日本なら、必ず誰かが「マイクなくていいのかよ?」と声をあげます。しかしアメリカ人スタッフたちはそうせずに、ただただぼくの方を見て、「注意してやってくれ」と目で懇願するのです。

結局ぼくは彼らの期待に応え、撮影を止めてマイクをセットアップさせ、おかげでスタッフからは「ナイスガイ」と呼ばれることになったのですが、プロデューサーからは後できつく釘を刺されました。「あれは意図的にマイクをつけなかったんだよ。全体の構成からしてあそこで音声はいらないからね。他のスタッフは全体なんか見ちゃいないんだから、変に彼らの意見に乗らないでくれ」と。

そんな風に上下の立場が明確なアメリカですが、決して一方的に上が偉いわけではありません。同じ現場でこんなことがありました。

ロケの最中に、カメラを動かすレールを敷こうということになりました。それはある種ディレクターの思いつきで、日本ならその妥当性を巡ってひとしきり議論になりかねないのですが、号令一下、機材係は「最高のレールを仕上げてやるぜ!」とばかりにレールの敷設に熱を入れます。

ところがうまく行きません。プロデューサーは、レールをカーブするように敷いて欲しいのに、機材係はカーブ用の特殊なレールを現場に持ってきていなかったのです。プロデューサーは思わず「なんで持ってきてないんだよ」と文句を言いました。するとそれまで黙々と指示に従っていた機材係は、猛然と反論し始めたのです。

「レールを使うかもしれないとは事前に聞いていたが、レールをカーブさせるという話は聞いていない。レールをカーブさせたいなら最初からそう言っておいてもらわないとできない!」

こう言われたプロデューサーは即座に謝り、結局レール作戦はあきらめて撤収を指示しました。すると激昂していた機材係は普通の表情に戻り、折角途中まで敷いたレールを、文句ひとつ言わずにテキパキと片付けたのでした。


現場で一番顔色がいいのは・・・

アメリカのように責任のありかを重視した契約社会がいいとは限らないと思います。しかし、日本のように責任を集団の中に溶かし込むようなやり方は、上から下まで徹底した節度と覚悟を持たないとうまく行かない気がします。

冒頭で紹介した発言をした彼は、その節度と覚悟を持った立派な人間ですが、みんながみんな、彼のようにできた人間ではありません。

少なくても日本の番組制作の現場では、上に行くほどよく飲みよく寝て顔の色つやが良く、下に行くほど死にそうにしています。しかしアメリカの現場では、責任の重さに比例して上の人ほど不眠で仕事をし、一番責任が軽いADは悔しいほどピンピンしていました。

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2009年07月02日

ステージママ

沖縄に遊びに行ってきました。沖縄の梅雨明けは例年よりだいぶ遅れていたそうですが、沖縄入りすると同時に梅雨が明け、おかげさまで海遊びを満喫させていただきました。

さて、そんな夏真っ盛りの沖縄でのこと。

宿泊したリゾートホテルで、食事のときに三線奏者の女性がテーブルをまわり、民謡や沖縄風ポップスを歌うというサービスをしていました。

彼女がぼくら夫婦の座るテーブルの付近にやってきてリクエストをつのると、となりのテーブルに陣取る女性が、「子どもの帰りをちょっと待っていただけますか」と、たまたま席を外していた子どもの帰りを待つように頼みました。すぐに戻ってきた息子さんは小学校3年生くらい。母親は、「×××(子どもの名前)、なにかリクエストしなさい」と息子を促しました。

するとこの息子さん、物怖じせずに次々とリクエスト曲をあげていきます。それはもう不自然なほどはきはきと。

やがて三線奏者の女性は、客からカメラのフラッシュをあびながら、リクエスト曲を含めて4曲ほど歌い終え、挨拶をして引き上げの準備にかかりました。すると隣のテーブルの妙に快活な子どもが、もどかしそうにこう言いました。

「子役なの・・・」

「え、子役?おばさんのこと?何?」女性はわけがわかりません。母親が説明を始めました。それによると、その子は子役をしていて、×××(ジャニタレを主役に配し、テレビ局がスポンサーについて1年ほど前に宣伝攻勢をかけたリメーク映画)で重要な役を演じたということでした。

「今は髪が伸びたからちょっとわからないかな」と母親。

三線奏者の女性は「へー、そうなんだ!おばさんの方が一緒に写真撮って欲しいくらいだけど、今カメラ持ってないから残念だな。握手?おばさんの方から頼まなくちゃね。ありがとうございます。あ、写真撮ってくれるんですか?感激だな。×××さん(映画の中で母親役を務めた人気女優)はきれいでしたか?そりゃきれいでしょうね!へー」

三線奏者の、自分の役割を心得た大げさなリアクションは痛々しく、ぼくは直視することができませんでした。カミさんを見ると、何か言いたそうに口をふるふるさせています。しかし母親の方は気まずい空気を感じられないようでした。

「今回はプライベートで来てるんです」

そんなことを言いながら、奇妙な母子2人は、三線奏者より先に席を立ちました。離れ際に、「×××(子どもの名前)、みなさんにご挨拶しなさい」と母親に促された息子は、慣れた様子で付近のテーブルの客たちに手を振り、颯爽と引き上げていきました。

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2008年05月20日

あれのせい、これのせい。

ここ数日更新が怠りがちだったのは、北海道を旅行していたからです。

ぼくは数年前から北海道にはまっていて、安い時期を選んで年に2度は遊びに行きます。レンタカーを借りてあちこち動き回るのですが、よく言われる通り、味オンチのぼくにもわかるくらいに食べ物はうまいし、温泉は豊富だし、自然も農地も雄大。それに本州の都会に比べて人間が穏やかで癒されます。

しかし今回は、やや残念な体験をしました。

まりもで有名なある湖の湖畔にたつホテルの従業員が、こうこぼすのです。

「このあたりは例年より明らかに客が減っている。洞爺湖の方に客を取られているんです」

そう聞いて最初はへえと思いました。サミット会場に選ばれて、北海道だ洞爺湖だと世界に名を広めたところで、北海道は広いですから、洞爺湖から離れた地域では、逆に観光客を取られてしまう結果になるのは十分にありえるはなしです。

ところがそのホテルに一泊して気づいたのは、従業員の対応が、微妙ではありますがどこか表面的で、客への気配りが足りません。そこで、客が減っているそうだがホテルのサービスにも原因があるのではないかと別の従業員に苦言したところ、今度はこう言われました。

「それは違います。まりもはもう飽きられたんです。旭山動物園に客を取られてるんですよ」

このホテルは結構評判がいいので、サービスがイマイチと感じたのは気のせいかとも思っていたのですが、この発言を聞いて確信しました。あれのせい、これのせいと、すべて他次第。もちろん努力だけではどうにもならない現実はあるでしょうが、そういう風に考えてしまうことを、情けないことと感じる姿勢がなければ、客へのサービスがうわべだけを繕ったものになるのも当然です。

その翌日別の街で、つまらないことで絡んできた警官に、そんなに暇ならそこら中にいる危険なクレージー・ドライバーをどうにかしろと定型の嫌味をいうと、待ってましたとばかりにこうこぼされました。

「東京の警視庁には3万人の警察官がいるけれど、北海道はこんなに広いのに1万人しかいない。やりたくてもできないんですよ」

カネがないからできない、人が足りないからできないというのは、典型的なお役人思考で、北海道に限ったことではありません。しかし、前にも後ろにも見渡す限り車が一台も走っていないよく整備された道を走りながら、ホテルで他力本願な態度を見た後にこういうセリフを聞かされると、残念な形でパズルのピースが合ってしまって、北海道が好きなだけに悲しくなります。

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2008年04月27日

燃費計のすすめ

またガソリンの値段が上がりそうな雰囲気なので、今のうちにと実家に行ってきました。ぼくの車は環境の敵とも言われるSUVで燃費が悪く、しかもガソリンはハイオクしか受け付けないので、往復150キロともなると大きく違ってきます。

このガソリン高騰時代に、貧乏人がでかい車に乗るとこうなるという見本のようで情けないのですが、今の車にかえた2年ほど前からなるべく車の使用を控えるようになり、そして燃費を気にするようになりました。

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2008年04月10日

無題

先日、電撃的に靖国神社を参拝した日本の福田首相が人民日報のインタビューに応じた。以下はその概要である。


Qこのタイミングで参拝した理由は?

Aチベットをめぐり、今中国の人々は西欧との価値観の違いに直面して苦しんでいます。同じ東アジアの兄弟として中国と価値観を共有する日本としては、今こそ西欧文明との戦いで命を落とした英霊たちを詣でることにより、態度を明確にすべきと考えるに至ったのであります。

Qしかし、日本は中国を侵略したんですよ?

Aいいえ。当時の中華民国政府はアメリカをはじめとする欧米列強の操り人形にすぎませんでした。CIAの操り人形であるダライ一派のチベット亡命政府と同じようなものです。中国の人々はダライ一派のチベット再占領を容認できますか?

Qとんでもない!それはチベット族のためになりません。しかし西蔵は中国固有の領土ですが、日本は中国の土地に何の権利もありません。

A西欧列強が中国を食い荒らす中、やつらを駆逐して中国を解放すたためにはやむを得ぬことだったのです。同じアジア人としての立場から、西欧人の横暴を黙って見過ごすわけにはいかなかったのです。

Qしかしどんな理由にせよ、中国の人民は日本の侵略で大変苦しみました。

Aなぜそう思うのですか?日本は、支配地において中国の人々の生活を改善しました。それ以前の中国人民は、腐敗した軍閥と西欧列強により奴隷状態におかれていたんですよ!しかし日本が支配した満州は工業化に成功し、多くの漢人たちが移住してきました。その後も日本の占領地は人が逃げ出すどころか逆に流入してきていたんですよ!

Qしかし日本は南京大虐殺をしました。100人斬りを楽しみ、731部隊は人体実験をしました。

Aまさかあなた方は西側メディアのプロパガンダを信じているんですか?それらについて最も信頼できる証拠は日本の資料だけで、それらはいずれもそうした事実が疑わしいことを示しています。すべて捏造なんです。


しかし現在のところ、首相の考えは誰にも理解されていない。朝日新聞は、日本の良心的平和活動家の間では、チベットの暴動はアジア再侵略を企む極右勢力の策謀ではないかとの疑問も出始めていると伝えている。

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2008年04月01日

THE Future

この画像に未来をみつけました。どこだと思いますか?

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