2014年10月03日

聖人とコブラ

韓国で行われているアジア大会で、インドの女子ボクシングの選手が韓国有利のイカサマ判定に抗議して、表彰式で自分の銅メダルを韓国選手の首にかけるという事件がおきました。インドのSarita Devi選手はその際「あなたと韓国人にはこれがふさわしい」と言ったそうで、彼女の夫も「韓国のやり方は非文明的だ」と激怒していました。

Youtubeにアップされた関連動画は短期間のうちに大量のアクセスを集め、インド人はもちろん、タイ人や台湾人などアジア各国人の韓国バッシングの場と化していました。インド人もタイ人もネトウヨというわけです。

ところで、Sarita Deviさんの毅然とした意思表示を見ていて、インドの寓話を思い出したので紹介します。

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むかしむかし、インドのベンガル地方のある村でのおはなし。

森に住むどう猛なコブラは、牛飼いや牛をたびたび襲い、村人を苦しめていました。そんなある日、村を訪れた聖人は、村人の嘆きを聞いて森に行きました。

お経を唱えてコブラを呼び出した聖人は、コブラと話をしました。聖人の徳に心打たれたコブラは反省し、二度と咬まないと誓いを立てました。

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コブラはもう咬まないと聖人から聞いた村人は、恐る恐る森に行きました。するとコブラは穏やかな様子で村人を襲う気配はありません。コブラに石を投げてみましたが、それでもコブラは抵抗しません。やがて子供たちはコブラをつかんで引きずり回したあげく、振り回して地面に叩きつけ、コブラに大怪我を負わせてしまいました。

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しばらくして再び村を訪れた聖人は、コブラは姿を消したと村人から聞いて森に行き、コブラを呼びました。巣穴に隠れていたコブラは聖人の前に姿を見せると、聖人の教えのおかげで心穏やかに暮らしていると感謝しました。

しかし痩せて傷だらけのコブラを見た聖人は、どうしたのかと問い詰めました。怒るという感情を克服し、子供たちに悪意を持たないコブラは、しぶしぶ虐待されたことを明かし、こう言いました。「子供たちは無知なのです。私の変化を知らないだけなのですよ」

これを聞いた聖人は声を荒らげて言いました。「このばか者め!私はおまえに咬むなと言ったが、威嚇するなとは言っていない。なぜシューっと声を出して追い払わなかったのだ?」

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これは19世紀のインドの神秘家、ラーマクリシュナの残した寓話と言われています。微妙に違うバージョンもあるので、或いはもっと古くからある昔話なのかもしれませんが、インドではよく知られた寓話です。

いずれにしてもこのお話の教訓は、怒りに身をまかせて感情的に振る舞うのは良くないけれども、それは何をされても黙っているのとは違うということです。不当な仕打ちに対して毅然とした態度を示さなければ、殺されてしまうかもしれないし、相手は無知なままだし、自分の精神も壊れてしまいます。

hiss(シューっと威嚇すること) と bite (咬みつく)は違うことであり、慎まねばならないのはあくまで bite。hiss を忘れると、むしろ社会の調和は壊れてしまうのです。

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2014年09月14日

朝日新聞と日本の異常な新聞観

朝日新聞の慰安婦と吉田調書をめぐる虚報問題は、特に慰安婦に関しては以前から定説化していたこともあり、報道内容の間違い自体に驚きはありませんが、虚報を認めた後の朝日新聞の態度は衝撃的です。

朝日新聞を始めとしたマスメディアに追及されて辛酸を嘗めた数々の企業や個人、そしてその過程で生まれた不祥事対策の専門家たちは、朝日新聞社のあまりの体たらく、その幼稚ぶりに、にわかに信じられない思いを抱いているに違いありません。

マスメディアの堕落は何も日本だけには限らないものの、これほどの無責任は他の先進国では見られません。日本のマスメディアの鏡であることを自認してきた朝日新聞のクズっぶりは、日本のマスメディアの特異な歪みと後進性の現れに他なりません。

では日本と他国のマスメディアの違いはどこにあるのでしょうか?その違いは、朝日新聞の常套句である「戦争責任」との向き合い方、「戦争と新聞の関係」の捉え方の違いに如実に現れています。

敗戦後、朝日新聞を始めとする日本の新聞各社は大いに反省しました。朝日新聞の場合、1945年8月23日に「自らを罪するの弁」とする社説を掲載しました。そこにはこんな風に書いてあります。

個人としての吾人は 必ずしも全部が優柔不断であつたとは信ぜられない。しかし組織の一部にあることを思ふ時、この組織を守り通す必要を余りに強く感じたが故に,十分に本心を吐露するに至らなかつた場合もないではない。…その結果として今日の重大責任を招来しなかつたかどうか。

戦争を起こした主犯は軍部と政治家であり、新聞は保身のためにやむなくそれに加担したと悔いているわけです。上司の犯罪行為に協力させられた部下の弁解そのものですが、朝日新聞の論法は通り、多くの日本人は新聞と戦争の関係を今もそう見ています。

しかし、戦争と新聞の関係をそんな風に見る先進国は他にはありません。新聞はそんなに弱い存在ではないからです。今はともかく、20世紀初頭の頃の新聞は強大な権力を有していました。

1898年の米西戦争を起こした主犯は「イエロー・ジャーナリズム」です。新聞があらゆる階層に急激に浸透したこの時期、ピューリッツァーとハーストという2人の新聞王は、読者の獲得競争を展開する上で扇情的な記事を連日掲載しました。おかげで読者はキューバにおけるスペインの圧政に対してマスヒステリアに陥り、政府を動かしたのです。

1914年に勃発した第一次世界大戦で有名なのは、イギリス人の集団ヒステリーぶりです。ドイツ人を劣等人種視してあらゆるドイツ風なものを排斥し、果ては犬のダックスフントまで迫害しました。こうした異常行動を引き起こしたのは、やはり新聞でした。

軍部や政府のプロパガンダのせいではありません。当時はまだマスメディアのパワーについて未解明で、政治家に新聞を通じて大衆をコントロールしようという着想はありませんでした。それどころか、当時のイギリス首相ロイド・ジョージは新聞を過大評価して新聞にコントロールされる始末で、イギリスの新聞王ノースクリフ卿は堂々とこう述べていました。

神は人に読む力を与えた。おかげで私は人々の脳髄を事実で満たし、そのあと誰を愛すべきか、誰を憎むべきか、何を考えるか指示できる。…私は政治家にはならない。なぜなら独立した新聞こそ将来の政府の形だからだ。

ノースクリフ卿は、新聞は第4の権力どころか、政府をも上回る権力を持つと豪語しているわけです。第一次世界大戦は新聞の持つ強大な権力をを浮き彫りにし、この体験を元にプロパガンダとPRという概念が生まれ、研究され、発展していくことになります。

日本では、日露戦争を機に新聞は急速に普及し、その後英米と似た状況になりました。検閲はありましたが、原始的な検閲でコントロールできるほど新聞の力はヤワではありません。1918年の米騒動や1923年の関東大震災における外国人襲撃、さらには1920年代の反軍ムードから軍国ムードへの急旋回などに、米西戦争時のアメリカ人、第一次大戦時のイギリス人と同様のマスヒステリアを嗅ぎとれます。

しかし日本では、英米におけるように、その原因を新聞を始めとするマスメディアに求める動きは起こりませんでした。「軍部に怯えて仕方なく従った」という朝日新聞の弁解は、日本を遅れた国と見ていたアメリカ人の偏見と、新聞を利用して占領統治を進めようとしたGHQの思惑に合致し、新聞そのものに潜在的に備わる危険性は見逃されてしまったのです。

英米の新聞観が、「新聞とは本源的に強大で危険なものである」という所からスタートし、だからこそ「政府にコントロールさせてはならない」であるのに対し、日本の新聞観は最初の大前提をスルーし、教条的に「新聞を政府にコントロールさせてはならない」という所から始まります。

これでは、「政府の圧力を受けない独立した新聞は善なのだ」というおめでたい結論をへて、先進国の中では突出した日本人のマスメディアに対する無邪気な信仰、自らの利益やイデオロギーのために大衆を踊らせて恥じないマスコミ人の傲慢につながるのは必然です。朝日新聞の常軌を逸した倨傲と無責任は、その成れの果てなのです。

朝日新聞の「腐乱」は、左翼や朝日新聞だけの問題ではありません。朝日新聞を廃刊に追い込んだ所で、新聞を始めとするマスメディアは正しい姿には戻りません。なぜならマスメディアは本源的に劇薬であり、どう対策しようと毒性と凶器性を排除できないからです。

マスメディアの毒を若干でも和らげる唯一の方法は、情報の送り手と受け手の双方がマスメディアの毒性を意識し、身構える習慣をつけることに尽きます。今回の件を通じて、100年前に確立したマスメディアの第一原則━━マスメディアの最大の目的は正しい情報を送り届けることではなく、より多くの読者/視聴者を獲得して社会に君臨することにあり、その過程でマスヒステリアを作り出してしまうという認識が、朝日新聞という巨人の崩壊を通じて、遅ればせながら日本にも根付くことを願います。

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2014年08月18日

ヘイト・プロパガンダ

第一次大戦のドキュメンタリー全26本をアップしました。全26本の再生リストはこちらです。

ザ・グレート・ウォー 〜第一次世界大戦(1〜26)

さて、第一次大戦というものを眺めてつくづく思うのは、マスメディアの力です。1914年の欧州の人々は庶民に至るまで新聞や雑誌を読み、新聞や雑誌を通して世界を見ていました。第一次大戦というのは、そういう状況下で行われた初の大戦争でした。

そんな戦争で人々の戦意を掻き立てる最大のエネルギーは、敵への憎悪=ヘイトでした。この傾向は特にイギリスで強く、新聞や加工写真、漫画などを使い、「妊婦の腹を割くドイツ兵」「赤ん坊を銃剣で串刺しにするドイツ兵」「占領地で子どもたちの腕を切断するドイツ軍」「死体からロウソクを作るドイツ」というようなヘイトをまき散らし、ドイツとドイツ人に対する憎悪を煽りました。

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報道に踊らされた大衆は「ドイツの血は汚れている!」と叫び、ドイツ系の人々の公職追放を求め、ドイツ風の名を持つ商店を略奪し、ダックスフントに石を投げて飼い主をスパイ認定しました。

第一次大戦は、マスメディアが驚くべき大衆操作能力を発揮した最初の機会で、政治におけるプロパガンダと、ビジネスにおけるパブリック・リレーションズはここに源流を持ちます。

第一次大戦時のようなあからさまな「ヘイト・プロパガンダ」は、先進国ではもう行われていません。ある意味ホロコーストよりも荒唐無稽なこうした描写は、史上初だからこそ効果を発揮したのであり、各国の人々は終戦後すぐに正気を取り戻し、宣伝による憎悪の拡散に身構えるようになりました。

大衆は時代とともに宣伝に対して耐性をつけ、宣伝もそれに合わせて進化したのです。先進国では第一次大戦時のような原始的なプロパガンダと劇的な効果は存在しえません。

しかし一部の国では未だに第一次大戦時そのままのヘイト・プロパガンダが行われています。後進性のバロメーターと言えるかもしれません。

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"Diaoyu Island: The Truth" なるドキュメンタリー映画のワンシーンより

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2013年02月12日

クール・ジャパンとハリウッド

先日、経産省は「クール・ジャパン」に500億円の予算要求をすると報道されました。

「クール・ジャパン」推進に500億円 税金でクールな文化は作れるのか?

クール・ジャパンの根底にあるのは、広告的アプローチで国家ブランドを向上できるという発想ですが、この発想の誤謬は、「国家ブランド」概念の発案者であるサイモン・アンホルト氏によりたびたび指摘されており、また国家ブランディング政策の先駆けである「クール・ブリタニア」の失敗は、その何よりの証です。

しかしながら、国家ブランドを向上できるかどうかは別として、宣伝しなければ売れないのもまた事実です。日本のポップカルチャーを巨額な宣伝費をかけて売り込めば、費用対効果は別にして、それなりに売れるのは確実です。クール・ジャパンの目的が、とにかく日本のポップカルチャーを海外で売ること、ただそれのみにあるのであれば、それは不可能ではありません。

ただし、それを目的とするにはクール・ジャパンというやり方は効果的ではないし、またコンテンツを売り込むことによる日本全体への波及効果はほとんど期待できません。それはハリウッドを見ればわかります。

全興行収入の3分の2にあたる224億ドルをアメリカ国外で稼ぐハリウッドは、世界で最も成功しているコンテンツ産業です。しかしそのアプローチはクール・ジャパンとは真逆です。すなわち、星条旗を立ててアメリカ文化のクールさを訴えるのではなく、コンテンツの内容、売り方ともに、「クールUSA」どころか「脱USA」、無国籍であることを目指しています。

文化商品というのはその他の商品に比して感情的摩擦を生みやすく、へたをすると文化侵略ととらえられてしまうので、国籍を前面に押し出して売るのはタブーなのです。日本のコンテンツを海外に売りたいのであれば、コンテンツ産業に海外展開を念頭においた無国籍作品、良く言えばユニバーサルな価値観を持つ作品の制作を促し、そのうえで輸出ダンピングすればいいのであって、日本を前面に押し出して広告展開するのは邪道です。

先日、クールジャパンにも関わるAKBのメンバーがお泊りの反省として坊主にし、海外から怪訝な目で見られましたが、あのように日本国内でしか通用しないメディア・スタントはご法度です。海外でコンテンツを売る基本は、まずはコンテンツの国際化であり、クールジャパンではなく脱ジャパンなのです。

しかしそれでも、500億円もの宣伝費を投入すればさすがにある程度は売上も伸びるはずです。ただしその売上アップは、ハリウッドの例を見る限りその他の産業や国全体のイメージ向上に寄与しません。

ハリウッド映画は1920年代以降世界一の映画産業として世界に輸出されてきました。いくらハリウッド映画が脱USAを指向しているとはいえ、そこにはアメリカのライフスタイルが溢れています。世界中の人々がコーラを飲み、ハンバーガーを食べ、ジーンズをはいてロックを聴くようになったのには、ハリウッドの影響は否定できません。しかし、アメリカ文化とアメリカ製品全般へのイメージアップに貢献したのかといえばそうではありません。

アメリカ文化は底が浅く、アメリカ人は単細胞でアメリカ製品はセンスが悪いというのは、世界共通の認識です。あらゆるアメリカ的なものに反感を覚える反米主義は、ブッシュ時代に生まれたものではなく、20世紀の通低音です。

実はアメリカは1950年代から60年代初頭にかけて「クールUSA」を実行したことがあります。1953年に設立されたアメリカ情報局(USIA)は、ニューオリンズ・ジャズとハリウッド映画は世界の人々を親米にする武器だとの報告書をまとめ、CIAはさまざまな文化工作を実行しました。「文化爆撃」により冷戦に勝利できると考えたのです。

ところがアメリカの対外イメージは一向に上がらず、1960年代初頭にはソ連型経済の勝利は時間の問題という認識まで広がり、途上国の指導者たちは共産主義に惹かれ、先進国の若者たちは反米に走りました。やがてCIAの工作が暴露されるに至り、アメリカはクールUSA戦略を放棄したのでした。

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今日でもヨーロッパの破産危機に瀕する国々では、若者たちはジーンズをはいてロックを聴きながら反米を叫んでいます。アメリカの製品とサービスには、実は日本よりも進んだ面も多々あるにもかかわらず、世界中で実際よりも低く見られています。100年におよぶ強力無比なハリウッド映画の世界支配は、アメリカの映画産業を潤わせてはいるものの、アメリカのイメージ向上にはほとんど貢献していません。国のブランドを広告的手法で上昇させるのは不可能なのです。

クールジャパンは、一重にコンテンツ産業ーー実際には広告屋を水ぶくれさせるだけの施策であり、しかも、コンテンツの国際化をなおざりにしてエスニシティを前面に立てるそのやり方は、コンテンツの海外展開をする上で非効果的かつ邪道です。クール・ブリタニア以降急速にポップカルチャーの衰えたイギリスや、クールUSA時代に激しく反米に揺れた世界を見れば、むしろこれまでコツコツと築き上げた日本ブランドを瓦解させかねない危険な策なのです。

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2013年02月11日

悪いのは猫である

この国では、猫を愛でて一人でいるのが好きで空気が読めないと反社会的人物になり、警察のミスを誘引するという人に非ざる凶悪犯罪を犯して社会的に抹殺されるようです。

この事件が世間の目を引いたのは、ネットに犯罪予告をするという、せいぜい万引き程度の軽微な犯罪そのものに理由があるのではなく、警察が誤認逮捕したことにあります。事件は犯人と警察の合作なのですから、犯人のみを叩くのは片手落ちです。

それでも、面子を潰された警察が猛り狂うのは理解出来ます。類似犯罪の抑止のためにも、自分たちの責任を棚に上げて犯人を晒し者にするのは仕方ありません。

しかし寒気がするのはマスコミの態度です。どうしてマスコミは、そんな警察の都合に合わせて容疑者のすべてをほじくり返し、ステレオタイプによる人格判断を撒き散らし、容疑者を社会的に抹殺しようとするのでしょうか?

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ネットの問題としてしばしば炎上の恐ろしさが語られますが、今回のようなマスコミによる炎上は、悪名高きネットの炎上とどこが違うのでしょうか?

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ネット普及以降のテレビ界は、「テレビを見てよき社会人になろう」というメッセージを広めていますが、権力のまくエサに無批判で食いついて物事をステレオタイプで判断し、ターゲットを決めたら全力で炎上させ、猫に注意するのが良き市民なのでしょうか?

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2013年02月07日

テレビの性

昨日の関東地方は大雪だというので、テレビは大騒ぎでした。

結果的に予報は外れ、たいした雪ではなかったのですが、大雪に備えて報道体制を敷いていたテレビ局は事前に準備した大雪企画を捨てきれずに各地から総力中継を行い、冴えない降雪状況を名残惜しそうに伝えていました。

あまりにテレビが騒ぐので、JAFには前日のうちに装着したチェーンが外せないトラブルが殺到したそうです。お天道さまにテレビ局が踊らされ、テレビ局に小市民が踊らされたというわけです。

さて、いつもはテレビ局に厳しい自分ですが、降らない雪に翻弄されるテレビ局の様子を見て、今回は少し同情してしまいました。元テレビマンとして、大雪予想に興奮して食いついて準備し、気まぐれな空を恨めしく見つめるスタッフの気持ちは痛いほどわかります。

世の人々の多くは、災害報道などを嬉々として伝えるテレビに批判的です。表面的には被害者に同情的な態度をとりながら、その実人々の悲嘆を商品として取り扱う彼らの態度は確かに醜いです。今回のズレたハシャギぶりもそれと同根です。しかし自分はそうした批判を共有しません。そんな風にモラルに訴えても何も変わらないからです。

テレビマンに限らず、マスメディアで働く人が最も頭を悩まし、エネルギーを費やすのは「ネタ探し」です。番組のネタさえ見つかれば、仕事は8割方終わったようなものです。そんな彼らに、最高のネタである災害に内心小躍りして飛びつくなと要求するのは無理な相談です。

いわば彼らはネタという獲物を求めて常に半飢餓状態の野生動物のようなものであり、天から絶好のネタが降ってくれば、本能的にむしゃぶりついてしまうのです。これはマスメディアの最大の行動原理であり、災害報道に限らず、あらゆるマスメディアの振る舞いはこの原理に支配されています。

例えばゴリ押しのような現象もこの原理により引き起こされます。テレビマンは銭に目が眩んで、ブームでもないものをブームだとゴリ押しすると考える人も多いようですが、そうではありません。現場のスタッフにはそんな意識は毛頭なく、ただ恒常的にネタ切れに苦しんでいて、「ネタ屋」の提供するおいしそうなネタに食いついているだけなのです。

ネタ屋というのはテレビ番組にネタを提案する人です。要するに広告屋なのですが、宣伝をテレビ番組向きのネタに整形するという点で普通の広告屋とは違います。

例えばあるカメラメーカーが若い女性をターゲットにした一眼レフカメラを宣伝したいとします。するとネタ屋は、「今男の趣味に夢中になる女子が増えている!」といういかにもの企画を仕上げてスタッフに売り込みます。いくつかの「〜女子」現象を集めて、そのひとつとして「カメラ女子」を取り上げ、実際のカメラ女子をどこからか集めてきて取材の手配までしてくれます。

ここまで仕上げられると、テレビスタッフからすれば純然たるネタです。食いつかない理由はありません。そしてどこかのテレビ番組や新聞雑誌がとりあげれば、そのネタはブームとして一層信憑性を高めて加速度的に後追い企画が増殖し、あれよという間にゴリ押しになるわけです。しかもネタ不足に悩むのは民放もNHKも同様ですから、NHKもゴリ押しに加担することとなります。ネタ屋は1990年代半ばに普及した比較的新しい職種で、以来テレビ番組の親広告化が進んでゴリ押しが発生しやすくなり、今ではゴリ押しでないものを探すほうが難しいほどです。

こうしたテレビとマスメディアの歪みの修正は不可能です。それはマスメディアというシステムそのものが抱えた性だからです。資本主義には修正不能な欠陥があり、やがて必然的に自壊すると説いたのはマルクスですが、資本主義よりも人工的で明白な欠陥に溢れたマスメディアは必ず自壊します。我々にできるのは、マスメディアを修正するのではなく、平和裏に自壊してもらうよう準備することなのです。

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2013年01月31日

醜いスポーツ

大阪の体育高校の体罰自殺事件の本質は、暴力とか体罰そのものの問題ではなくて、生徒をそこまで追い込む構造にあると思うのですが、体罰、体罰と騒いでいるうちに、今後は五輪女子柔道の監督が体罰で告発されたりして、思わぬ展開を見せつつあります。

自分は体罰には反対ですが、真剣にスポーツに取り組む競技スポーツの世界で、体罰ごときに大騒ぎするのはおかしいと考えます。体罰に効果があるからではありません。現実として、体罰のないスポーツなど世界のどこにもないからです。

アメリカの高校アメフトでは、コーチはちょくちょく生徒をぶちのめしますし、イギリスのラグビーやサッカーのコーチも同様です。コーチが優しくても先輩が陰湿にしごき、それで泣きでもすれば、「お譲ちゃんはバレーボールでもやってな」と笑われます。ときどき訴訟沙汰になったりしますがもぐら叩きで、抜本的に体罰を根絶した国などありません。

繰り返しますが、自分は体罰に反対です。しかし例外的事例を除いては、体罰はスポーツの一部であり、スポーツと体罰は同じコインのオモテウラの関係であり、体罰のないスポーツはスポーツではないのです。スポーツ界の体罰に憤り、体罰のないスポーツを夢見る人は、スポーツを美化しすぎです。

スポーツの醜さは体罰に限りません。トップアスリートともなれば、白々しくウソをついてドーピングしますし、またスポーツ界は一般人の想像を絶する階級社会でパワハラ天国です。日本では元五輪柔道選手が教え子をレイプしたと訴えられましたが、世界でも同様で、トップレベルになればなるほど教え子へのセクハラは日常茶飯事です。

このようにスポーツというのは人間のプリミティブな醜さを凝縮した世界なのですが、なぜか世間ではそうは扱われません。醜い側面を一切隠して、美しい面ばかり強調されます。美しい面も事実に即していればまだいいのですが、誇張と脚色で大感動物語に仕立てられて感動的な音楽とともに語られ、成功したアスリートはロールモデルとして賞賛され、五輪招致に燃える都知事は、五輪招致に狂喜乱舞しない人を引きこもりと表現して二級市民扱いします。

この極めて歪なスポーツ過剰美化の理由は、マスメディアにあります。19世紀までのスポーツは「ハラハラ・ドキドキ」ではありましたが感動とは無縁な存在でした。しかし20世紀の初頭、新聞とラジオはスポーツに感動の要素を加えて新たなスポーツを創造し、戦争とならぶキラーコンテンツに仕立てました。今あるスポーツはスポーツそのものではなく、マスメディアの成立とともに生まれたマスメディアのコンテンツなのです。

だからマスメディアのない世界にスポーツは存在しません。ここ数年続々とスポーツの不祥事が明らかになり、その一方でスポーツの美化が激しいのは、マスメディアの衰えと焦りの証です。まもなくスポーツは感動の仮面を剥がされ、ハラハラ・ドキドキの正常な姿に回帰していくことでしょう。

それは商品としてのスポーツの価値を下げることにはなりますが、社会全体にとってはプラスだと思います。今の世の中、スポーツ界ほど神棚に祀られて保護され、その結果原始時代的価値観が堂々とまかり通っている世界はありません。そんな修羅の世界に子どもたちを投げ込み、肉体的精神的に痛めつけてはいけないのです。

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2013年01月30日

みんなでやってる感

自分には常々、テレビというのは必要悪であるという思いがありました。マスメディアには害悪としか呼べない醜悪な面もあるけれど、社会を動かす情報の伝達にはマスメディアは欠かせません。だからかつての自分は、劇薬を取り扱う者として自らを認識し、それなりに重責を感じてテレビの仕事をしていました。

しかしインターネットの普及後、マスメディアは必要不可欠な存在ではなくなりました。鈍感な自分が初めてそれを感じたのは2004年頃でしたが、その思いは日々強まり、それとともにテレビの仕事をするのが苦痛になり、やがて業界を去る決意をするに至りました。薬にならない劇薬はただの毒です。目の前の利益と既得権を守るために悪に奉仕することは、自分にはできませんでした。モラルというよりプライドの問題です。

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ハイパーメディアクリエイター氏が、4Kテレビにからめてテレビ業界の現状を次のように語っていました。

昨年末、久しぶりに日本で年末年始を過ごし、久しぶりに「紅白歌合戦」をチラ見したが、
出演者の数にビックリした。無意味に演歌歌手の後ろに、団体を配置するのに善し悪しはともかく、十年後には、総出演者はのべ1000人を超える事になるのではないだろうか?

現在、日本のテレビが創出しているのは「みんなでやってる感」である。インターネットに顧客を取られたテレビは、テレビでしかできないことをそれなりに考え、それは、大画面で「みんなでやってる感」を演出し、視聴者をその「みんな」に入れてしまう手段である。よって、テレビは日々「みんなでやってる感」が跋扈し、これには、この正月最高興行収入を出した「ワンピース」から「サッカー」の国際試合までこれに含まれるのだろう。

4Kテレビ

情報媒体としての地位をインターネットに脅かされたテレビが、テレビにしかできないことを追求し、それが「みんなでやってる感」であるという見方に完全に同意します。そしてそれこそがマスメディアの毒なのです。

「みんなでやってる感」の何が悪いのか疑問に思う人もいると思います。人々が意識してひとつになるのであれば問題はありません。しかし今のマスメディア、とくにテレビがしているのは、人々をモブ化して群衆を操作する行為であり、これは「ひとつになろう」の持つ肯定的な側面とは対極に位置する毒に他なりません。

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観測することでその観測対象が変化してしまうというのは、ハイゼンベルクの不確定性原理ですが、マスメディアというのはまさにこれで、透明な観察者になることはできません。ある事件の闇を第三者的立場から告発すると、その瞬間にマスメディアは事件の関与者となり、事件そのものの性質が変化してしまいます。だからマスメディアには元来2種類のタイプの人間がいました。ひとつは、そんなマスメディアの性質を利用して積極的に社会を変えようとする者、もうひとつは、あくまで傍観者であろうとして社会に及ぼす変化を極力小さくしようとする者です。

後者は、本音を言えないという欠点を持ちます。極論を避け、感情を押し殺し、穏健な両論併記でなるべく世の中を煽らないようにするため、受け手からすれば奥歯に物が挟まったように歯がゆく刺激が足りません。インターネットの普及に最も打撃を受けて衰退したのはこのタイプです。本音を語らずにバランスをとろうとする態度と、本音をぶつけあいつつ全体としてバランスをとるインターネットでは勝負になりません。その結果マスメディアは、前者のタイプ、大衆扇動機関としての性質を積極的に利用して社会を動かそうとするタイプに一元化されつつあります。

「みんなでやってる感」は、そうした態度の顕れのひとつです。政治、事件、エンタメ、彼らはあらゆる分野において国民的なヘッドラインを作り、大衆を同一の対象に注目させ、人々の関心と欲望をコントロールしようとします。そして自分の関心と欲望を支配された人はもはや個人ではなく、モブの部分にすぎないのです。

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ハイパー氏は「みんなでやってる感」が危険な理由を「ソフトなナショナリズム」に向かうからだと述べています。これはある面誤解を誘い、ある面正しい見解です。

自分はナショナリズムはそれほど悪いものだとは思いません。ナショナリズムは誰の中にも自然にあるものです。そしてナショナリズムを下らぬものと唾棄できるのは、よほど生活に恵まれたごく一部の人に限られます。

ただし、ナショナリズムは誰の中にもあるものだけに求心性が極めて高く、多くの人の関心と欲望をコントロールするのに最高のネタとなりえます。だからナショナリズムは危険なのです。ナショナリズム自体が悪いのではなく、今日のマスメディアのような輩にナショナリズムを扱わせると、人々は簡単にモブ化してしまい、あまりの威力に暴走して水蒸気爆発してしまうから危険なのです。

インターネットにも独自の力学でブームを作り出す力があります。クチコミというやつです。日本でも世界でも、クチコミという下からのブーム創生力は年々増しています。ブームを作る主導権まで奪われたら、マスメディアは本当に終わりです。だから彼らはこれからますます死にものぐるいで人々の関心と欲望をコントロールしようとするはずです。そしてその過程でナショナリズムに手を出すのは確実です。

それがいつになるかはわかりません。しかし差し当たりは、ハイパー氏の言うように、「ブラジルワールドカップの際には、国家をあげて国民に4Kテレビがゴリ押しされる」のは間違いないと思います。

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2013年01月29日

肩書きはチラ裏を金言に変える

借金地獄に陥り破産の危機に立たされている南欧諸国は、金融支援と引き換えに社会保障費や公務員の大規模削減を強いられています。そんな国のひとつポルトガルで、アルトゥール・バプティスタ・ダ・シルヴァ教授は反緊縮を訴える論客の一人でした。

元ポルトガル大統領のアドバイザーであり、世界銀行の元アドバイザー、今はアメリカンのミルトン大学で教鞭をとりつつ国連の金融リサーチャーを務めるダ・シルヴァ氏は、去年4月にポルトガルの論壇に登場して以来大活躍で、知識人たちを前に講演を行い大喝采を受け、労組の指導者たちと会談し、テレビ、新聞で盛んにコメントを取り上げられました。去年12月にダ・シルヴァ氏のインタビューを掲載した高級ニュース誌「エスプレッソ」の記事は、ロイターを通じて世界に発信されました。

金融支援計画について再交渉しないとポルトガルは大変な社会混乱を招くと、南欧問題に取り組む国連の経済学者は訴えた。

土曜日に発売されたエスプレッソ誌で、負債に苦しむ南欧諸国を調査する国連開発プログラム(UNDP)のコーディネーター、アルトゥール・バプティスタ・ダ・シルヴァ氏は、ポルトガル支援は「非常に悪い結果」をもたらしており、計画について再交渉すべきと述べた。…

UN economist: Portugal needs partial debt renegotiation


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しかし、ダ・シルヴァ氏の肩書きはすべて偽りでした。国連はダ・シルヴァ氏との関係を否定し、アメリカのミルトン大学は1982年に廃校していました。また彼には経済学を学んだ形跡もありませんでした。ダ・シルヴァ氏は、過去2度詐欺罪で服役した前科を持つただの詐欺師でした。

The fraudster who fooled a whole nation: Portuguese media pundit exposed as conman

ダ・シルヴァは、精巧なニセの名刺と口の巧さだけで、ポルトガルの人々を8ヶ月もの間騙し続けたのです。

正体を暴かれたダ・シルヴァは言います。「私を詐欺師と言うのはたやすい。しかしなぜ金融資本家たちを詐欺師と呼ばないのだ!」。彼の主張は所詮は陳腐な金融マフィア批判にすぎませんでした。

しかしポルトガルの人たちは彼のチラ裏をありがたがりました。もしダ・シルヴァの肩書きさえ本物ならば、主張の質度外視で人々は彼に喝采しつづけ、チラ裏は政治を動かし、EUと世界をも揺るがしたかもしれません。そして残念なことに、ポルトガル人を笑える人は極めて少ないのです。

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2013年01月24日

イーベン・バイヤーズの悲劇

先日、「The Untold History of the United States」という米帝バッシングの本を読んでいたら、そこにほんの少し出てきたエピソードが妙に印象深く、本題とは関係のないそのエピソードが頭から離れないので記しておきます。

それは、イーベン・バイヤーズのお話です。

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1880年に鉄鋼王の御曹司として生まれたイーベン・バイヤーズは、スポーツに秀でた華麗なプレーボーイでした。とくにゴルフの腕前は超一流で、1906年には全米アマで優勝したほどでした。映画「ボビー・ジョーンズ ~球聖とよばれた男 ~」には、14歳のボビー・ジョーンズにマッチプレーで敗れる役として登場しています。

やがてバイヤーズは製鉄会社の会長におさまり、未曾有の好景気に沸いた「狂乱の1920年代」を優雅に過ごしていました。しかし1927年にチャーター列車の寝台から落ちて腕を打撲し、それ以来腕の痛みに悩まされるようになりました。医者はバイヤーズにある薬をすすめました。「Radithor(レディトー)」です。

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レディトーというのは蒸留水にラジウムとトリウムを混ぜた放射能水です。濃度は1本あたり7万4000ベクレルでした。先日、福島第1原発の港で採取した魚から、今までの最高値である1kgあたり25万4000ベクレルの放射性物質が検出されたと騒がれましたが、1本60mlのレディトーの場合、1kgあたりに換算すると実に123万ベクレルを超えます。

なぜそんな汚染水を飲むのだと思うかもしれませんが、当時の人々は放射線は健康に良いと考えており、放射線物質入りの歯磨き粉だとか、放射能水を作るポットなどの放射能健康グッズが氾濫していたのです。レディトーはそのひとつで、販売者は「表示以下の含有放射能なら1000ドル差し上げます!」と品質を保障していました。

さて、レディトーを飲んだバイヤーズはすぐに気に入りました。本人曰く腕の痛みは消え、肌の艶は良くなり、精力も増したそうです。バイヤーズはレディトーをケースで買い込み、1日に2本から3本欠かさず飲み続けました。しかし飲み始めてから1年ほどすると、体は痩せ、やがて歯も抜け始めました。検査を受けた時にはすでに手遅れでした。

およそ2年間にわたり1400本におよぶレディトーを飲んだバイヤーズは、計1億8500万ベクレルの放射性物質を体内に入れたと推定されています。やがて顎の骨は壊死して脱落し、脳は膿み、頭蓋骨は崩れて穴だらけになりました。苦しみ抜いた末に1932年に死亡したバイヤーズは、鉛でコーティングされた棺桶で葬られたといいます。

怖い話です。しかしより怖いのは、当時の人々は決して放射線の危険性に無知だったわけではないということです。

1904年に放射線障害で両腕を切断して癌で死んだエジソンの助手を筆頭に、放射線による悲惨な症例は数多く報告され、専門家たちは放射線の危険性を十分に認識していました。しかしそうした事実ははなから放射線を良きものと思い込む人たちの頭には届かず、バイヤーズは自らの身を滅ぼしたのです。

放射線信仰は1945年の原爆投下まで続き、その後は180度転回して今日に至ります。

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2013年01月22日

「国家ブランディング」は国を滅ぼす

まもなく退任する韓国の李明博大統領が、韓流ブームによる国家ブランドの上昇を自画自賛していました。

李大統領は、国のブランド価値が上がれば有形・無形の相乗効果が絶大としながら、「今や『コリア・プレミアム』時代であり、韓国の商品価値も上がった」と力説した。

李大統領 韓国の「格」上昇を協調

この考えを改めないかぎり、韓国は大変なことになると思います。

韓流最大の成果としてあげられる「江南スタイル」のヒットは、ケーポップ路線から逸脱した計算外の出来事であり、「ニューヨーカー誌」の指摘する通り、むしろケーポップの「文化テクノロジー」という哲学を真向から否定します。

また、韓流が韓国製品の価値を高めるのに貢献しているというのも俗説の域をでません。韓国製品躍進の理由は、高品質の製品を安く提供できたからに尽きます。韓流が韓国製品のイメージアップをもたらしているとするなら、世界最大の韓流消費地である日本で、サムスンとヒュンダイはオシャレ企業としての地位を確立しているはずです。

「国家ブランド」という概念を最初に提唱したのは、イギリスの政策アドバイザー、サイモン・アンホルト氏ですが、以前にも書いたように、彼は国家ブランドという言葉を広めたのを後悔していると繰り返し述べています。なぜならば、国家ブランドという言葉は、国家のイメージをマーケティングで変えられるという誤解を生みやすいからです。

アンホルト氏によれば、「国家ブランド」は確かにありますが、「国家ブランディング」はできません。つまり、国家イメージはマーケティングにより操作できるものではないのです。しかし「国家ブランド」というキャッチコピーは政治家と官僚の間にそのような誤解を広めてしまい、おかげで広告屋のカモにされていると嘆きます。

下の映像で、アンホルト氏は国家ブランディング行為の無意味さを強く主張し、「ブランド」という意味曖昧な英単語は使用禁止にすべきだとまで述べています。アンホルト氏によれば、国家ブランディングというのは、自分の華々しい血筋や学歴や職歴を他人の前で滔々とまくしたてるのと同じであり、そんなことをしてもまわりから性格破綻者と認定されるだけなのです。



日本の嫌韓ムードは、典型的な反日左翼政権である盧武鉉政権時代に激しく高まりました。しかし、李明博政権の成立とともに急速に減退しました。盧武鉉政権とは違い「まともな政権」である李明博政権は、ファナティカルな反日姿勢を見せませんでしたから当然の展開です。

しかし2010年頃から再び嫌韓は強くなり始めました。日韓の間に感情的な政治問題は存在しないというのにです。この不可解な嫌韓復活の背景に、2009年に設立された「韓国コンテンツ振興院」による、国策としての韓流ゴリ押しを見ようとしないのはどうかしています。

今日の日本の嫌韓は、李明博大統領の竹島上陸や天皇土下座発言により突如として噴出したのではありません。むしろあの事件は、韓流ゴリ押しにより醸造されていた嫌韓ムードに、爆発の契機を与えただけにすぎないのです。

韓国の新政権は国家による韓流ゴリ押しを継続するそうですから、韓国の自傷行為はまだしばらく続くことになりそうです。この愚かな行為は、韓国という国家の未来に致命的な損害を与えるに違いありません。日本の政治家と官僚には、広告屋の口車に乗せられて韓国の轍を踏まないように願うばかりです。

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2013年01月21日

もっと感動を!

大学アメフト=カレッジ・フットボールは、アメリカで非常に人気があります。大学のくせに収容人数10万人クラスのアメフト専用スタジアムを持つ大学がゴロゴロしています。そんなカレッジフットで、マンタイ・テオ選手は最も注目される一人でした。

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名門ノートルダム大のラインバッカーである彼は、カレッジフットで最も栄誉ある賞「ハイズマン・トロフィー」の投票で2位に入る実力者であり、プロアメフトNFLのドラフトの目玉でもありました。そんな彼が、今大変なスキャンダルに見舞われています。

事の起こりは去年の秋、ミシガン州立大との伝統の一戦を前に、テオ選手は祖母と恋人を相次いで失う悲劇に襲われたと伝えられました。そして白血病で死亡した恋人の「わたしの葬儀に出るよりも試合を優先して。プレーで私を追悼して」という遺言通りテオ選手は試合に出場し、12タックルをあげる大活躍でチームを勝利に導きました。

悲しみを乗り越えて栄光をつかんだ感動物語は、スポーツ・イラストレイテッド誌をはじめとする雑誌、CBS、ESPNをはじめとするテレビ、そして各新聞で大々的に報道されました。死んだルネイ・ケクアさんを偲んで白血病治療のための基金が立ち上げられ、テオ選手は辛い体験を語り、白血病病棟を見舞いました。全米は泣き、テオ選手はロールモデルになりました。

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朝のニュースで悲恋を紹介しテオ選手を讃えたCBS


しかし今年になり、驚くべき事実が判明しました。ルネイ・ケクアの死亡記録はなく、在籍していたとされる大学にも在籍の記録はなく、彼女の写真として紹介された写真は別人のフェイスブックから拝借したものでした。

彼女はもともとこの世に存在しない、架空の人物だったのです。

今、アメリカのマスコミはテオ選手の背信に憤り、悲恋が捏造された経緯を追及しています。しかし、仮にテオ選手が自ら感動物語を捏造していたとしても、はたして彼は全米を揺るがすほどの極悪人なのでしょうか?

なるほど彼はどうかしているレベルにまで話を盛りました。しかし、たとえば二次元の彼女に入れあげ、彼女の死をリアル恋人の死のように悲しむ男がいたとしても、少し気持ち悪いだけで、モラルに反する行動とは言えません。問題があるとするなら彼ではなく、そんな彼の話に飛びついて美談に仕上げ、拡散したマスコミにあるのです。

アメリカのマスコミの中には、なぜ事実を確認することなく記事にしたのか自省するものもあります。しかしそれは、フィクション作家がウソを書いたのを後悔するような白々しい態度です。

かつてテレビでスポーツドキュメンタリーを作っていた頃、「もっと感動を!」という上からの注文にどれほど辟易したことか。そしていつの間にかそれに違和感を抱かなくなり、誰に言われなくても「もっと感動を!」という姿勢でストーリーを盛りまくる自分を見つけて唖然としたことか。

マスコミ、とくにスポーツマスコミというのは、常に頭の中に「もっと感動を!」という声をこだまさせながら取材をしています。スポーツという素材から感動物語を紡ぎだすのが彼らの仕事であり、フィールドに散らばるパズルのピースをいろいろと組み合わせて、そこに「感動」という要素を見つけたときに彼らは小躍りします。

そんな彼らがテオ選手の悲恋に飛びつくのは当然です。事実を確認しろと言われても無理な話です。スポーツの感動というのは程度の差こそあれほぼすべてが虚構に基いており、事実にこだわり始めると、玉ねぎの皮を剥くように何もなくなってしまうからです。

例えばテオ選手の場合、ルネイ・ケクアが実在し、ただし恋人関係と呼ぶには微妙な関係だった場合どうなるのでしょうか?2人の間に恋愛関係がなければ、ルネイ・ケクアが実在しないのと同様にテオ選手の悲恋は虚構になります。しかしスポーツマスコミの常識に従えば、わざわざそこを追求し、恋愛関係の有無にこだわるべきではありません。そこまですると、スポーツにまつわる感動物語はほぼすべて捨てなければならなくなるからです。

今回テオ選手の感動物語の虚構を暴いたのは「Deadspin」というウェブメディアでした。「家内制メディア」を可能としたインターネットは、スポーツ報道の世界にオルタナティブな視点を持ち込み、マスコミという資本集約型感動生産工場で作られた神話を揺るがします。

このままいけば、やがて多くのメインストリーム・スポーツはチープな感動の仮面を剥がされ、それとともにあまりカネを生まない存在へと変容してゆくのは避けられません。それを恐れるからこそ、アメリカのマスコミとスポーツ界はテオ選手事件に血相を変えて話をすり替え、事件の「主犯」を見つけてスケープゴートにしようとしているのです。

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2013年01月05日

NYT's shameful impulse

ニューヨーク・タイムズが、年明け早々紋切り型の安倍政権批判を炸裂させていました。

Another Attempt to Deny Japan's History

「歴史を否定する再度の試み」などという型通りのタイトルのこの記事は--

日韓関係はアジア情勢の安定において最重要の要素である。にもかかわらず安倍新首相は、両国の関係を悪化させて協調を難しいものとする重篤なミスにより政権をスタートするようだ。

と、さすがは「アメリカの朝日」と唸らせる直情的な断定口調で書き出し、「セックス・スレーブ」問題についてのあらましを述べ、次のように締めくくります。

安倍氏の恥ずべき衝動は、北朝鮮の核問題などにおいて極めて重要な両国の協調を脅かしかねない。このような歴史修正主義は日本にとり赤面モノだ。日本の重要課題は長期の経済停滞からの脱出であり、過去の歪曲ではないのである。

なんというか、やたらと大上段からの物言いです。左翼紙とはいえ読ませる記事も多いニューヨーク・タイムズですが、この社説はただただ陳腐で、NYTというブランドを傷つけかねない恥ずべき駄文であり、売上拡大に力を入れるべき立場の旧メディアとしては赤面モノと言わざるをえない。

しかし、欧米の安倍政権評論が一様にこんな有様かというとそうではありません。オーストラリアのジャーナリストは、まるでNYTの社説に対する返歌のような意見を書いています。

Has Japan Twisted To The Right?

日本の安倍新首相が志向する方向は、必ずしも「右翼」な方向ととらえるべきではない。総選挙における自民党の勝利を劇的な右傾化とするなら、それは単に、左に寄り過ぎていた戦後日本の政治の中道化にすぎない。

…安倍は前任者たちに比べればタカ派的に見えるが、日本全体が右傾化しているという見方は短絡的であり、日本のおかれた政治状況を無視している。

記事を書いたサラ・デ・シルヴァ氏は、自衛隊の国軍化は不自然な状況の正常化にすぎず、中国と韓国の過剰な警戒を「パラノイア」であるとし、安倍政権の積極姿勢を好意的に解釈します。

安倍はアメリカとの同盟を強化するとともに、インド、オーストラリア、アセアン諸国との安全保障関係の緊密化を志向している。新政権は、アジアにおいて戦略的視野に基づいたより積極的な外交を展開しようとしているのだ。平身低頭することで「友好」維持に努めてきたこれまでの路線からは大きな転換である。安全保障政策において過去と決別する安倍のアプローチは、地域における日本の役割の再定義を必要とする。

…日本に関わる政治家や識者は、新政権に対する右翼連呼報道に惑わされてはならない。日本に対しては、安易な解釈に基づく不正確な分析ではなく、長期的視野に立脚した状況分析が求められる。解釈の誤りは戦略的な失敗につながり、地域諸国と世界の利益を損なうことにつながりかねないのだ。

というように、海外の意見はそれぞれなのであり、安倍首相には、安易な解釈に基づく不正確な分析記事に惑わされずに、毅然とした振る舞いを望みたいものです。

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2012年12月31日

「文化テクノロジー」というアナクロニズム

年末年始は、派手な音楽番組が大量にテレビで放送されることもあり、ネット上では「ポップス文化論」的なオピニオンがあちこちで展開されます。

唸らせる内容の上質記事もたくさんありますが、中にはトンデモもあります。そんなトンデモのひとつ、とうか妙にそれらしく書かれているので油断していると頷いしまいそうになるという点で有害とさえ言える記事がこれです。

PSY「GANGNAM STYLE」はいかに世界を変えたか:「文化テクノロジー」としてKーPOP

文化のグローバリゼーションに合わせて文化生産システムを築いたKーPOPの前途は洋々であるという内容で、そうした視点を持たない日本の大衆文化はガラパゴスであると含みをもたせています。

「文化テクノロジー」などと言われると、ついほぉ〜と感心してしまいますが、では「文化テクノロジー」とは何ぞや?と問われると、何のことだかわかりません。この記事は、「文化テクノロジー」というキャッチコピーを軸に、ひたすらKーPOPに砂糖を振りかけて本質をぼかす、分析に見せかけたイメージ売り込み記事だからです。

この記事でたびたび援用されている「ニューヨーカー」誌の元記事にあたると、「文化テクノロジー」の正体は記事のタイトルですぐにわかります。

Factory Girls

「ファクトリー・ガールズ」、すなわちK-POPとは、緻密にマニュアル化された工程に従って作られる、アイドルという名の大量生産商品なのだというわけです。そしてもちろんこの記事は、そんなKーPOPというシステムを肯定してはいません。

「『文化テクノロジー』としてのKーPOP」においては、サイの成功は「文化テクノロジー」戦略の延長として位置づけられています。しかし「ニューヨーカー」の記事では、サイの成功は「文化テクノロジー」への反証として取り上げられています。

皮肉なことに、芸能事務所のアイドル生産への多額な投資にもかかわらず、アメリカで初めてブレークした韓国人ポップ・スター、サイの成功は、大量生産システムの外で起きた。サイはY.G.エージェンシーに所属しているが、アイドルの素材ではない。彼のファーストアルバム「PSY from the PSYcho World!」は「不適当な内容」との理由で糾弾されたし、セカンドアルバムの「Ssa 2」は19歳以下に販売禁止とされた。2001年には大麻吸引で逮捕され、兵役中には職務怠慢により再度兵役を課せられている。彼は韓国のポップ・スターではあるがK-POPではなく、KーPOP的世界観を皮肉る内容の「江南スタイル」により、欧米におけるKーPOPの前途を貶めたとさえ言えるだろう。少なくても、小太り男によるおバカダンスが、緻密な計算により作られたアイドルグループに成し得なかった成功を収めたという事実は、文化テクノロジーの限界を示している。

「江南スタイルはK-POPを殺す」という視点に、自分は全面的に同意します。世界最大のK-POP市場である日本で、江南スタイルが伏せられた最大の理由は、そこに見出されるべきなのです。

「『文化テクノロジー』としてのKーPOP」の筆者は、未来のミュージック・シーンについて次のように書きます。

K-POPの可能性を正面から論じた欧米メディアの報道に従えば、PSY人気を契機として、グローバルヒットを生み出すための「テクノロジー」は、より高品質のプロダクトを目指して、今後世界中でよりいっそうの開発が進むこととなる。そしてその予測が正しければ、未来のヒットチャートは、世界各国の多種多様なアーティストが入り乱れる多言語空間になっていくはずなのだ。

なるほど、ネットの普及による情報のグローバリゼーションが、国境や言語という水平軸の差異を無効化していくことに異論はありません。しかし筆者は、もうひとつの軸、垂直軸の差異の無効化を無視しています。

かつてのミュージック・シーンは、メジャーレーベルを頂点としたヒエラルキーの中で展開されていました。しかしネットは、メジャーレーベルとインディーズの差はもちろん、究極的には音楽の生産者と消費者の差さえ解消してしまいます。未来のヒットチャートは、多言語空間であるとともに、多生産者空間になるに違いないのです。

であるならば、旧態然とした垂直軸を基礎として成り立つKーPOPやAKBのような「アイドル工場」システムは、早晩瓦解するはずです。いや、すでに「アイドル工場」により作られたヒットチャートがミュージック・シーンから完全に乖離し、何やら別のものに変質している現状を見れば、こんなものに未来を見ようとする態度は、どうかしていると言わざるをえません。

「文化テクノロジー」などという軽薄なキャッチコピーに踊らされるビジネスマンや役人が少ないことを祈ります。

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2012年12月28日

便所の落書き

偉大なジャーナリストである筑紫哲也氏が、TBSのニュース23において「ネットは便所の落書き」と述べたのは1999年のことであったと記憶しています。

まだブログさえ存在しなかった当時、2ちゃんねるや「ホームページ」上においては、氏の発言に対して一斉に非難の声があがりました。しかし、グーグルもアマゾンもまだヨチヨチ歩きの頃でしたから、世の大半の人々はネットをお遊びとしか見ておらず、筑紫氏の言葉にウンウンと頷いたものでした。

あれから13年、時代は変わりました。筑紫氏がキャスターを務めていたころのTBSは、テレビジャーナリズムの頂点に君臨していたーー少なくてもその気概がありましたが、この度の選挙特番はテレ東の後塵を拝し、民放で最低の視聴率を記録しました。「報道のTBS」「民放のNHK」というかつてのニックネームは、今やジョークにもなりません。

そして新聞はこのありさまです。

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識者に安倍内閣のニックネームを考えてもらうという企画で、「そつなくまとめてみました内閣」「まぐれ敗者復活内閣」「期待度ゼロ内閣」「福島圧殺内閣」「ネトウヨ内閣」「国防軍オタク内閣」「厚化粧内閣」「学力低下内閣」などなど、書き写しているだけでウンザリする罵倒を書き連ねています。

これを便所の落書きと言わずに何を便所の落書きと言うのか?「チラシの裏」ならぬ「チラシのオマケ」に堕した新聞にふさわしい内容と言えばそれまでですが、安倍内閣には、こうした時代遅れな産業をゾンビとせぬような政策を望みます。

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2012年12月22日

ネットとリアルの融合

ドワンゴの川上会長が、おもしろい主張をしていました。

「ネットはリアルにどんどん侵食されている」ーーニコ動6周年 川上会長に効く、リアルに投資する理由

今の時代、ネットとリアルの融合が進んでいるのは、誰の眼にも明らかだと思います。しかし、彼の主張はどこかズレているような気がしてなりません。例えば彼は、こんな言い方をします。

「今、大きな力を持っているのは、リアルの従属物としてネットがあるようなサービス。ネットがリアルにどんどん浸食されている。ネットで生きることとリアルで生きることを融合しないと、“ネットの人”の生きる場所がなくなってしまう。隔離された場所はどんどん狭くなっていくので、ネットを拠点として現実とつながらないと、幸せになれないと思う」

彼は、ネットとリアルの融合を、「ネットがリアルにどんどん侵食されている」と表現します。これは単なる言葉のアヤではなくて、他のところでもこの世界観に沿った発言を繰り返しています。例えばーー

リアルイベントを行い、集客してみせることでニコ動は、「現実社会は多様だ」と、オタクに迫る。「ネットは自分が見たい意見しか見えない構造なので、自分の意見が世の中のすべてだと錯覚しやすい。みんなが自分の好きなものだけを見て幸せにやっているならそれでいいが、自分の意に沿わないものを弾圧しようとし、そこに争いが生まれてしまう。世の中はもっと多様だと認識したほうがいいと思う」

これは、ネットがリアルに侵食されるという立場に立ち、ニコ動においてネット文化を創造してきた人たち、彼の言葉でいう「オタク」の人たちに、リアル世界のあり方を啓蒙し、彼らをリアルに引き寄せるという姿勢です。また別のところではこう言います。

最近のニコ生番組は、テレビが作ったフォーマットをネット生放送に載せ替えた番組も多く、「ニコ生が小さなテレビのようになっている」という批判もあるが、「ネットの番組が進化したらテレビに似てくるのは当然。ネットはテレビのレベルを目指すべき」と、川上会長は反論する。「ネットで一番面白い番組と、テレビのそれを比較して、どちらが面白いかは歴然としている。テレビは何十年もの歴史で進化している。テレビと同じだからダメという批判はおかしい」

ネット動画は、既存のテレビ番組=リアルに近づいて当然、ネットはリアルを見習うべきという主張です。これもまた、「リアルがネットを侵食する」という世界観から導かれる姿勢です。

ネットとリアルの融合といえば、クリス・アンダーソンの「MAKERS」です。この本は、まさにネットとリアルの融合について、実体験と多くの実例を絡めつつ語り尽くした一冊です。しかしアンダーソンの視点は、川上会長のそれとは正反対です。



前著の「ロングテール」や「フリー」で、ネットという、従来のリアル世界とは違う価値観を持つ世界を探索したアンダーソンは、この本でさらに一歩考察を進め、ネットによる変革は「ビットから原子」へと進出する時期を迎えたと説きます。ネットはもはやモニターの中の出来事ではなく、手でさわれるハードの世界、ものづくりの世界へと広がりつつあり、それは新たな産業革命を引き起こすだろうという見立てです。

アンダーソンによるネットとリアルの融合は、ネットがリアルの従属物になるのではなく、リアルがネットを侵食するわけでもありません。ネットがリアルを侵食するのです。ネットによるものづくり革命の一翼を担う企業としてあげられる「Etsy」のチャド・ディッカーソンCEOは、もともとオタク的事業として発足したEtsyが、リアルな大企業へと変容していくことについてこう述べます。

「Etsyがその他の世界のようになるのではありません。むしろその他の世界がEtsyのようになってきているんですよ」

川上会長という人は、ネット規制を是認するなど、以前からネット企業の責任者とは思えない発言をしてきました。ネットというのは所詮リアルの従属物であり、リアルに飲み込まれるものだという世界観は、そうした発言と合致します。

ドワンゴはネットを使った企業であるけれど、ネット企業ではないのです。ニコニコ動画は、がんばればテレビ東京にはなれるかもしれませんが、テレビに代わるものではないのです。

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2012年12月13日

ステマは規制ではなくならない

2012年は「食べログ」のステマ騒動で始まり、「ペニオク」のステマ詐欺で終わる、ステマの年になりました。

「ワールドオークション」をめぐっては、グラビア出身の人気女性タレント(35)が2年前、自身のブログに、同サイトを利用して空気清浄機を1080円で落札したと記載していたことが判明。12日付の読売新聞によると、このタレント側は「落札は嘘で、知人から『サイトの運営者から30万円をもらえる。アルバイトをしないか』と誘われた。サイトは利用していない」と警察に説明したという。

有名芸能人が宣伝していた詐欺容疑の「ペニーオークション」

ファンを騙して詐欺サイトに導いていたわけで、しかもこのタレント以外にも多くのタレントたちが「アメブロ」を舞台に犯罪幇助をしていたようで、なんとも哀れな話です。

こういう事件がおきると、必ず規制しろという人が出てきます。しかし自分は規制には反対です。

イギリスのように明確にステマを禁止している国もあります。しかしその効果は疑問視されています。どこまでがステマでなく、どこからがステマなのかは非常に微妙な問題で、その判定はとてもむずかしく、一方で法律の裏をかいくぐるのは簡単だからです。

ネット犯罪をめぐる日本の警察の無能ぶり、あるいは秋元康氏にカモにされる役人たちの体たらくを見れば、役所というものがいかにそうした「創造的な判断」に適していないかわかります。そういうことにかけては役人はプロの広告屋の敵ではなく、本当に悪質なステマは悠々と生き延び、一方で弱い者いじめーー例えば匿名掲示板つぶしの口実に使われたりするが関の山です。

だからステマ対策は規制に頼るのではなく、教育と自警団に任せるべきです。

教育については説明するまでもありません。ステマの被害者を出さないため、ついでに「バカッター」の被害者を出さないため、「情報」科目を新設して、小学校から教えるべきです。「横断歩道を渡るときは、右を見て左を見て、もう一度右を見てから渡りましょう」と子供の頃習うように、この情報戦争時代に、情報との付き合い方を教えずに放り出すのはむごすぎます。

大人の人は、英語の勉強をかねてこの本でも読んで、ステマの怖さを再確認しましょう。少し古い本ですが、世の中がステマに満ちていることがよくわかります。



そして、悪質なステマ業者への罰は、自警団に任せます。炎上も悪いことばかりではありません。悪質なステマを企んだ主犯と、その片棒を担いだタレント、さらには「うちは関係ない」と関与を否定する周辺の組織まで、徹底的に炎上させて、思い知らせてやるのです。

ステマ広告屋にしてみれば、カネとクチでどうにでもなる規制よりも、教育と自警団で対抗された方が100倍怖いのです。

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2012年11月29日

アメリカの野球チームが景気いい理由

日本のプロスポーツはファン離れと収益悪化に苦しんでいるのに、アメリカのメジャーリーグはウハウハです。

日本では日本テレビの巨人戦中継(地上波)が全盛期と比べて年々減少傾向にあるが、海の向こうアメリカでは、スポーツ中継のコンテンツ価値が飛躍的に上昇している。

現在、FOXスポーツがドジャースに支払う放映権料は、12年で総額3億5000万ドル(約288億円)。来季が契約の最終年となるが、ドジャースが新たにFOXに提示した契約は25年、総額60億ドル(約5000億円)の超大型契約で、場合によって70億ドル(約5760億円)に達する可能性もあるという。


放送権料10倍です。こういうニュースを読むと、「実はアメリカは好景気なのか?」とか「アメリカは野球ブームなのか?」と考えてしまいます。

いえいえ、日本同様アメリカは不景気ですし、野球人気も落ち目です。ついでに言えばテレビ業界も落ち目です。でも、放送権料は10倍に跳ね上がるのです。しかもドジャースだけでなくほとんどすべての球団で。

なぜだと思いますか?そのからくりは、アメリカのテレビ事情にあります。

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日本でテレビといえば、キー局を中心とした地上波放送ですが、アメリカでテレビといえばケーブルテレビです。アメリカのプロスポーツチームは地域に根ざしていますから、ケーブルテレビと相性がよく、すでに1970年代末から、スポーツ中継はケーブルのローカルスポーツチャンネルで視聴するものとして定着してきました。上の記事に出てくる「FOXスポーツ」は各地のローカルスポーツ局をたばねた最大手で、つい最近までメジャーリーグ中継をほとんど独占していました。

ところが今、そんなケーブルテレビのスポーツチャンネル界に変化が起きています。ライバル局が大金を積んでフォックスの牙城を崩そうとするなど、放送権獲得競争が激化し始めたのです。

競争激化の理由は、スポーツ中継の相対的地位の上昇にあると言われています。CMスキップ機能の普及により、ドラマやドキュメンタリーの広告価値は低下しました。さらに番組配信サイトの広がりにより、そうしたオンデマンド向きのコンテンツでは、テレビに客を集められなくなりました。

そんな中、CMスキップせずにライブで視聴されるスポーツ中継は、テレビの力を最も活かせるコンテンツとして再注目されるようになったのです。いわばスポーツ中継は、砂漠化して川や湖が干上がる中、最後に残されたオアシスのような存在なのです。

しかもオアシスに群がるのは、テレビ屋だけではありません。ローカルケーブル網という安価なインフラを使い、オアシス自身であるスポーツチームが、自ら放送事業に乗り出し始めたのです。

この動きは2000年頃に始まり、最初はヤンキースやレッドソックスのようなファンベースの大きな人気チームだけでしたが、やがて収益性が高いことがわかると、ファンベースの小さないわゆる「スモール・マーケット・チーム」も続々と球団放送局を立ち上げ始めました。

本拠地とする地域の人口が300万人に満たないクリーブランド・インディアンスのようなチームですら放送局を開設し、チームの試合中継を核としてその他の地域スポーツにも放送の枠を広げ、着実に事業を拡大しています。

というわけでアメリカのプロスポーツチームは、新しいビジネスモデルの開拓と「オアシス効果」による競争加熱により、放送局との関係において一人勝ち状態となり、ガッポガッポなのです。

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では日本のプロスポーツチームは、アメリカのケースに習い収益をあげられるでしょうか?

難しいと言わざるをえません。日本のテレビ事情は未だに地上波の独壇場であり、ケーブルも衛星放送もそれほど普及していません。従って地上波放送局を脅かす新規参入は期待できず、スポーツ中継をめぐる競争も起きようがありません。

ガチガチに固定化された地上波テレビを核とするメディア構造が壁となり、スポーツ中継に限らずコンテンツ産業へのカネの流れをせき止めているのです。

確かにアメリカで起きている状況はある意味過当競争であり、プロスポーツ自体が先細りする中、いつかクラッシュする可能性も否定できません。しかし、球団に落ちた大金は有能な人材を惹きつけ、産業全体を活性化させ、21世紀にふさわしい新しいスポーツの魅力を創造する土壌を育むはずです。

旧態然としたビジネス構造を守るためにカネが浪費される日本に比べ、いかに羨ましい状況であることか。一刻も早くこの壁を壊さないと、日本の大衆文化はテレビ局と心中することになりかねません。

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2012年11月25日

ゴリ押し再考

先日、常々ネットでゴリ押し視されている某若手女優が原作とまるでイメージの合わないテレビドラマの主演に抜擢され、話題を呼んでいました。

人々が「ゴリ押し」について文句を言うようになったのは、近年マスコミがゴリ押しを始めたからではなく、以前はゴリ押ししても誰もそれと気づかなかったのに、ネットの普及で多くの人がそれに気づくようになったのが主因です。

しかし、ネットにゴリ押しという言葉が定着してからすでに3、4年はたつのに、相変わらずゴリ押しが止まないというのは、世間の空気に敏感なはずのマスコミと広告屋にしては仕事が雑すぎます。

どうして彼らは、世間からゴリ押しと批判されながら、態度を改めようとせずにゴリ押しを続けるのでしょうか?

考えられる理由のひとつは、「ゴリ押しだろうと何だろうと、名前を売り込んだほうが勝ち」だからです。これは古くからある宣伝の大原則で、かのゲッベルスも、「無関心よりは憎まれた方がいい」と説きました。ネット時代の現代でも、「炎上商法」として受け継がれています。

しかしこの手法が成功するには条件があります。ゴリ押しする商品に中味がないと、本当にバカにされるだけで終わってしまうのです。ナチスの理念は、時代を考えれば十分中味を伴うものであり、ゲッベルスの発言は、ナチズムの本物ぶりを前提とした上でなされたものでした。

広告的手法でただの石ころを宝石に変えるという、アンディ・ウォーホルやマルコム・マクラレンが皮肉って見せた倒錯的状況は、マスメディアが情報を独占していたほんの一時期だけに見られた特殊な現象で、今日ではもはや通用しません。

長期間にわたり、人々から「ゴリ押しだ!」と指摘される商品は、中味がないと判断されたも同然であり、宣伝としては大失敗なのです。

しかし、広告屋はバカではありませんから、そんなことは重々承知しているはずです。でもゴリ押しを続けます。どうしてなんでしょう?

その最大の理由は、ゴリ押しのターゲットは大衆ではないからです。

テレビ屋や広告屋は、ゴリ押しで大衆を洗脳しようとしているのではありません。別の対象をかどわかすために工作し、それがゴリ押ししているように見えるのです。

その対象とは、広告主です。

メディアというメディアに露出させて、スターとしての体裁を整え、「今若者に大人気でマスコミから引っ張りだこのこのタレントを使えば、広告効果抜群ですよ!」と広告主を惹きつけるのです。きちんとした企業や官庁は、新聞やテレビを見て世情を判断しますから、コロリです。

もちろんこんなやり方は長続きしません。しかし、マスメディアとそれを牛耳る広告屋に、中長期的な視野で活動する余裕はありません。とにかく騙せるところから騙して、カネを集めるので精一杯なのです。

もしかしたら彼らには、もはや広告主を引っ掛けているという意識すらなく、自分たちの広告に自分たちで引っ掛かっているかもしれません。末期的な業界ではよく見られる光景です。

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2012年11月22日

マスメディアとカルト

インターネットの普及による弊害として、カルト宗教が広がるのではないかと、かつて危惧していたことがあります。
インターネットはマスメディアの力を削ぎます。カルト宗教に批判的で、人々を常識という牢屋に閉じ込めるマスメディアが衰退すれば、カルトが跋扈するのではないか?そう考えたのです。

またインターネットは、偏った世界観を抱く人たちが連携しやすく、それもまた、カルトの蔓延にはおあつらえ向きの環境です。

ところが、インターネットがマスメディアのヘゲモニーを揺るがし始めてかれこれ10年ほどたちますが、カルトブームが起きる気配がありません。もちろんカルト教団は多々あり、準カルトとでも呼ぶべき陰謀論もあちこちで見かけます。しかしそれらは昔からあるもので、近年力を増しているという風には見えません。それどころか、その反対のトレンドすら嗅ぎ取れます。

自分の予想はどこで間違えたんだろう?

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そう考えているうちに、推論の前提に間違いがあることに気がつきました。マスメディアとカルトは対立するものではないのです。

オウム真理教の犯罪にTBSが関与していたのはよく知られていますが、オウムが伸長し1995年に暴発するまでのあの頃、マスメディアとカルトの深い仲はそれにとどまりませんでした。

あの頃、テレビのワイドショーと週刊誌は、連日カルト宗教ネタで視聴率を稼いでいました。表向きはカルト叩きでしたが、若い女性信者と高学歴信者を前面に押し出した派手なオウムと、タレントの合同結婚式参加で一世を風靡した統一教会は国民的見世物であり、マスコミはただ彼らの動向を外から伝えるのではなく、能動的に関与して、「リアリティ番組」に仕上げていたのです。

それだけではありません。1980年前後からスピリチュアルな話題をプッシュしていたテレビと出版界は、1990年頃には「心霊ブーム」を招来し、スター霊媒師はゴールデンタイムの顔に昇格していました。朝の番組で占いを流し始めたのも90年代初頭で、スピリチュアルな世界を大衆の日常に刷り込んでいました。

いわばマスメディアは、自ら肥やしをまいてカルトの育つ土壌を作り、そこに実った甘い実を食べていたわけです。簡単にいえばマッチポンプです。

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さらに考えてみれば、そもそも今日的な意味でのカルト宗教の起源は、マスメディアの登場と時期を同じくします。

欧米における新宗教運動(ニューエイジ運動)の祖は、19世紀末に大ブームを巻き起こした霊媒師、ブラヴァツキー夫人とされていますが、それはまさに新聞が普及し、マスメディア時代に突入したのと同時期でした。

日本では、日露戦争がスイッチとなり急速に新聞が普及しましたが、やはりその時期、「大本」「太霊道」「ほんみち」など、数々の新宗教が生まれています。

こうして見ると、カルトはマスメディアとともに生まれた、同じコインの表と裏、正統と異端のような関係と言えるかもしれません。

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そうであるならば、マスメディアの力が落ちているのにカルト宗教が今ひとつ伸びないのも納得できます。マスメディアの衰退はカルトを利するのではなく、カルトの存在意義をも脅かすのです。

311地震とそれに続く原発事故は、カルトにとってこれ以上ない発展のチャンスでした。 そして実際、各カルト教団は信者獲得に精を出している聞きますし、怪しげな陰謀論、ニセ科学も跋扈しました。しかし、今のところその被害は最小限に留まっているようです。

むしろ、もしインターネットが存在せず、情報がマスメディアだけであったなら、人々の不安は情報不足により増幅され、マスメディアの吹く笛に乗れない人々は疎外され、新たなカルトムーブメントの温床となったに違いありません。

あらゆる人に向けたあらゆる情報が散りばめられたインターネットは、規格情報しか流せないマスメディアほどには人を疎外せず、従って、少なくても20世紀的な形でのカルト宗教の出番はないのかもしれません。

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