2013年01月15日

無関心層にすがる燃えかす

去年くらいから、「ネトウヨ」という言葉がメインストリーム・メディアでも語られ始めています。ネトウヨという言葉を駆使した論説の肝は、ネトウヨの主張に正面から挑もうとせず、ネトウヨの主張を主張以前のものとして片付けたうえで、そのような傾向を有する者たちをひとつのカテゴリーでくくり、「社会の負け犬」「アンクールなやつら」というイメージを植え付けることにあります。

この記事にもそうした傾向が見て取れます。

差別はネットの娯楽なのか(9)――新大久保で反韓デモに遭遇した若者たち「日本人として恥ずかしい」

記事では、先日新大久保で行われた「在特会」のデモについて、ツイッター民の次のようなコメントを紹介しています。

「デモやってるけど周りの人たち超引いてる。本人達しか盛り上がってなくて、見てるのが恥ずかしくなるレベル」

「めっちゃ気持ち悪いおじさん過ぎてまじむかつくわー」

「おっさん。お前人間として恥ずかしくないの?」

「このおじさん頭大丈夫?デモとかさやっても意味ないし!日本の恥!!」

記事では、こうしたコメントを、在特会の思想と行動がいかに歪んでいるかを表現するために使用しています。しかし、「恥ずかしい」「気持ち悪い」という糾弾は、政治運動に対する批判たりえません。

いかに排外的であろうとも、在特会の主張と行動は政治的なものです。それに対して「恥ずかしい」「気持ち悪い」という評価は、極めて非政治的な態度です。この記事の筆者は、自分と相容れない政治的主張を、相対する政治的主張により論破するのではなく、「あいつらキモクナーイ?」と、政治的無関心の観点から否定しようとしているのです。

筆者の立ち位置が、「デモとかさやっても意味ないし!楽しけりゃいいじゃーん!!」というものならそれで結構です。でもそうではありません。筆者の李伸恵氏は、リング上で在特会とにらみ合う立場にあります。それなのに政治的無関心を奨励するような態度をとるのは、「このマッチはくだらないよー」と吹聴しているも同然で、自分の立場さえ無意味化してしまいます。

筆者はそれを感じているようで、次のようにも記しています。

このデモに関連したまとめのなかに「同じ日本人として恥ずかしい」との言葉が、何度も出て来た。私は、この言葉にも少しの違和感がある。在特会を「自分とは違う、恥ずかしいもの」として他者化することは、自分のなかの「差別する心」を見えなくしてしまうような気がするのだが、気にし過ぎだろうか。

違和感を感じるのは尤もです。しかし違和感の原因は、在特会を他者化するツイッター民の姿勢ではなく、筆者の姿勢にあるのです。

小熊英二氏の「1968」によれば、日本人は韓国や中国に対して加害者であるというストーリーは、1960年代末以降にメインストリーム化したといいます。それまでの左翼運動が退潮し、世間の政治的無関心が広がる中、良心に訴える加害者論は、人々に政治化を促すツールでした。革命を熱く語る左翼人士に対し、「危ない」「気持ち悪い」と白い眼で見始めた世間を、「お前たちには血も涙もないのか!」と揺さぶり、運動を再生させようとしたのです。

ところが今や、左翼の燃えかすは人々の政治的無関心にすがる有様です。無関心層の政治意識を高めようとすれば、日本人商店のショーウィンドウを割り、日本人への憎悪を子どもたちに植え付け、日本憎しの感情の前に法さえ捻じ曲げる韓国や中国の姿を避けて通ることはできません。

ありもしない「ネトウヨ」の幻影と格闘し、在特会のような泡沫ムーブメントをライバルとするまでに落ちぶれた日本の左翼は、非政治的な無関心の中に埋もれていこうとしているのです。

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2013年01月13日

なぜ彼らは正常な判断力を失ったのか?

顧問の体罰を苦に自殺した高校バスケ部の主将のニュースが世間を騒がせています。

桜宮高校の男子バスケットボール部顧問は、高校バスケ部の指導者として全国的に知られる存在で、16歳以下の男子日本代表チームのアシスタントコーチも務めていた。以前から体罰も含めた“熱血”指導で知られ、同部を全国大会の「常連校」に育てたという。

…顧問は平成6年4月から保健体育科教諭として勤務。学校での評判について、顧問を知る卒業生からは「先生がやってきたことは間違っていない」などと擁護する声も聞かれた。

「先生は間違っていない」”熱血”指導で全国大会常連校にした顧問

顧問は次のようなシゴキをしていたと言います。

市教委や学校関係者などによると、生徒は自殺前日の12月22日の練習試合で顧問から叱責や体罰を受けた後、桜宮高の体育教官室で約1時間にわたり顧問と面談。顧問がより厳しく接する主将を続けることについて「しんどい」と気持ちを伝えた。

これに対し顧問は、生徒が主将をやめれば2軍に落とすことを迫りながら翻意を促し、「キャプテンをやめて一線を退くか、殴られてもキャプテンを続けるか、どっちや」と質問。主将を続ける意思を示した生徒に対し、「ほんなら(殴られても)ええねんな」とさらに迫った。

「主将続ける」悲壮な決意の生徒に顧問「今後も殴られてもええな」

このニュースを聞いた世間は、「顧問は許せない!」「顧問を擁護するやつらは頭おかしい!」と憤り、問題は体罰の是非になりつつあります。

しかしこのニュースには、シゴけばシゴくほど立派な選手になると考えているような顧問の勘違いと同等か、あるいはそれ以上に異常な要素があります。自殺した生徒の判断です。生徒は、「キャプテンをやめて一線を退く」か「死ぬ」かの二択を与えられて、死を選びました。判断として歪んでいます。

似たようなことは以前にもありました。去年の初頭、ワタミの女性社員が過酷な仕事を苦に自殺した事件です。世間はワタミのブラックぶりを非難しましたが、ほとんどの人は女性社員の姿勢はスルーしました。「仕事をやめる」か「死ぬ」かの判断を迫られて、死を選んだことをです。

「キャプテンをやめて一線を退く」のも「仕事をやめる」のも、当の本人にとって極めて重大なことであるのは否定しません。しかし断じて、自分の死と引換にするほど大事なことではありません。

それがいかにおかしな判断であるかピンと来ない人は、自分にこう問うてみてください。「あなたにとって、自分の命と子供の命(あるいは親、伴侶の命)のどちらが重いですか?」。中には自分の命の方が圧倒的に大事と答える人もいるかもしれませんが、恐らくほとんどの人は、自分の命と大切な人の命は同等に重いと考えるのではないでしょうか。価値の重さとしては、「自分の命=大切な人の命」です。では、「キャプテンをやめて一線を退く」のと「大切な人の死」の二択を迫られたら?

答えは「キャプテンをやめて一線を退く」に決まっています。冷酷な自己中と思われたくないからではありません。どう考えても大切な人の命の方が重いからです。なのに彼らは、「大切な人の死」を選んでしまいました。一等地に建つ持ち家を100円で売るくらいありえないことです。彼らは正常な価値判断能力を失っていたのです。

ですからこのような事件は、メンタルヘルスの問題か、あるいはそうした精神の歪みを生む構造の問題としてとらえるべきで、「ブラック企業」とか「体罰の是非」の問題に矮小化すべきではありません。ブラックも体罰も、その重さは相対的なもので、いくら体罰教師を処罰したところで、あるいは「生徒に指一本触れてはいけない」と法制化したところで、精神の歪みを生み出す構造が残されている限り問題はなくなりません。体罰教師は生徒に指一本触れずとも、ブラック企業は社員にムチを振るわなくても、死刑宣告できるのです。

以前、40代の元プロ野球選手と話していて、大学時代のシゴキについて聞いたことがあります。いわゆる「脳筋大学」出身の彼の口からは、普通の人には想像もできないようなおぞましい体罰とイジメの数々が語られたのですが、最近母校に顔を出してみたらシゴキは消えていたといいます。「近頃の子はヤワだからさ、シゴくとすぐ大学やめちゃうし、部員も集まらないんだそうだよ。ただでさえ学生の数が減ってるのにそれだと困るだろ?だから今の時代、部員は大学の大事なお客様なんだとさ」と彼は嘆いていました。「やめる」という選択肢を考慮できる正常な判断力さえあれば、みんな幸せになれるのです。

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2013年01月08日

安倍政権は歴史を語るべきではない

先日のNYTの煽り社説や、エコノミスト誌のナイーブな記事を読むと、愛国的な日本人としては暗澹たる気分になります。

Back to the future

「新政権を『保守』と表現するのはその真の性格をとらえていない。これは急進的国家主義内閣なのだ」とは穏やかではありません。

が、「日本は世界で孤立している!」とか「中韓のプロパガンダに負けないように真実を発信していかないと!」などと慌ててはいけません。「性奴隷」や「レイプオブ南京」を始めとする歴史問題において最も大事なのは、問題の本質を見極めることであり、直情的に動くのは逆効果です。

過去問題とは歴史の問題ではありません。過去問題は今日の政治問題なのであり、また心理学的な認知バイアスの問題なのです。

中国人や韓国人が過去にこだわる動機は単純です。それが利益になるからです。20世紀的価値観において、自らを犠牲者と位置づけるのは倫理的に上位に立つことを意味し、極めて大きな武器となります。第一次次大戦以降のあらゆる国際紛争は、犠牲者の椅子を取り合う椅子取りゲームであり、その椅子に座った者が常に勝利を手にしています。

中国人と韓国人は、そんな20世紀のワンダーウェポンである犠牲者カードの効果を確実なものとするため、自らを「ホロコーストの被害者」としようとするのです。

だから歴史的事実を指摘し、「あれはホロコーストではない」と主張しても何の解決にもなりません。ことの真贋は二の次だからです。過去問題を解決するには、歴史的事実を主張するのではなく、まずは犠牲者カードの無力化に注力せねばなりません。

国内の極左勢力が老衰を迎えようとしている今、これは簡単です。中国や韓国との間に揉め事が起きたとき、日本側は過去カードを黙殺し、過去問題の混入を毅然として拒否すればいいのです。犠牲者カードという葵の印籠に対して、「で?」と返せば黄門様はただの爺です。

ところが難しいのはここからです。犠牲者カードという武器のすごさは、やじうまの中から同調者を集めやすいという性質にあるからです。葵の印籠を無視していると第三者たちがぞろぞろと集まり、激しく糾弾されて土下座を強いられてしまうのです。NYTの社説やエコノミスト誌の記事はこれにあたります。

やじうまたちは、中国人や韓国人たちのように政治的動機から糾弾するのではありません。彼らは正義感からそうした行動を取ります。であるならば、彼らに歴史的事実を提示すれば理解してもらえるようにも思えます。しかしそれは早計です。所詮第三者である彼らは、日中韓の歴史問題を認知バイアスで見ており、面倒な歴史的事実など耳に入らないからです。

認知バイアスについては、D・カーネマンの『ファスト&スロー」に詳述されていますが、思い切り簡単に言えば、あらゆる人間は情に流されやすく、しかも情を理と勘違いしてしまいがちで、並大抵なことではその誤謬に気づかないという頭の構造のことです。



いわば過去問題をめぐる日本は、エレベーター事故を起こした「シンドラー社」のようなものです。当時やじうまの多くは、調査中の事故の詳細はもちろん、エレベーター事故の統計さえ知らないのに、悲惨な事故描写と限られた情報をもとにシンドラー社に土下座を迫りました。事故機の製造会社がいくら理を説いたところで誰が我に返るでしょうか?むしろ袋叩きにされるだけです。

ですからここでも、歴史的事実を説くのは何の効果もありません。やじうまに対しては、心理学的手法でのぞまねばダメで、やじうまたちに「オレたちは情に振り回されているだけなのでは?」という気づきを起こさせるのが先決なのです。

非情な言い方ですが、シンドラー社が不当な非難をかわすのに最も効果的なのは、別の大手エレベーター会社が大事故を起こすことです。人々の理性を呼び覚ますには、理性ではなく情に訴える事件が必要なのです。実はこの点日本は恵まれています。

何しろ中国はああいうタチで、放っておけば周辺国を恫喝し、やがてはアメリカと衝突します。アジアの人々とアメリカ人が中国を怪物と認識したときーーそれもまた認知バイアスに基づくものではありますがーーそのときやじうまたちは、日本の過去にまつわるファンタジーに心を動かされることがなくなり、理性的に判断しようとするのです。

ですから、安倍政権が歴史問題を解決しようとするなら、歴史を語ってはダメなのです。歴史問題については譲歩もプッシュもすべきではなく、中国人と韓国人が持ち出す過去についてはそれを政治的威嚇として対処し、第三者が持ち出す過去については認知バイアスとして対処し、ただもくもくと中国包囲網を構築していれば、必ず「そのとき」はやって来ます。

歴史問題は一息で片付く問題ではありません。安倍政権は土壌の整備に専念すべきで、それが問題解決への一番の早道であり、またそれさえできればあとは歴史家たちがスイスイと片付けてくれるはずなのです。

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2013年01月02日

ブロック経済と自由貿易圏

ブロック経済というと、ある経済圏を高い関税で囲い込み、その他の国を締め出すというイメージがあります。しかしブロック経済というのは、必ずしもそういうものではありません。

ブロック経済で有名なのは、20世紀序盤の英連邦です。1929年の世界恐慌を乗り切るために構築された、世界の4分の1に及ぶこの巨大な経済ブロックは、世界的な不況を長引かせ、日本を膨張主義に走らせた理由のひとつと考えられています。

ところが英連邦のブロック経済は、なにも関税障壁により外に対して市場を閉ざしたというわけではありません。

もともと大英帝国は、カナダ、オーストラリア、南アなどの植民地に「ドミニオン」という高度な自治権を与えており、それぞれのドミニオンは独自に通貨を発行して経済運営していました。関税の設定も独自に行い、イギリス本国との貿易にも高関税をかけるほどでした。

英連邦のブロック化とは、そうした植民地間の関税障壁を撤廃するとともに、通貨を英ポンドにペッグするというものでした。外に対する関税障壁は二の次で、当初は英連邦外からの輸入に一律10%の関税をかけただけでした。アメリカが平均40%の輸入関税をかけていた当時、これはとても保護貿易とは呼べないレベルです。

このように英連邦の経済ブロック化とは、外に対して高い壁を築いたというよりも、中の風通しを良くしたというのが本質なのです。しかしながら結果としてそれが高い壁となりました。壁とは内外の相対的差により生じるものだからです。

こうして見ると、ブロック経済というのは、現代のEUやNAFTA、そして昨今議論されているTPPそのものであることがわかります。自由貿易圏の構築とは、自由貿易の精神に反する態度なのです。

TPPに批判的な人たちは、「TPPから得られる恩恵は小さい」と言います。確かに歴史的に見ても、自由貿易圏から得られる恩恵は微妙です。1932年に経済ブロックを構築した英連邦諸国は、第二次大戦により特需が生まれるまで不況を抜けだせませんでしたし、EU諸国にしても、域内自由化により目に見えて豊かさが増したかと言えば、そんなことはありません。自由貿易圏の恩恵は、誰の眼にも明らかな類のものではないのです。

しかし損をする者は明白です。それは、自由貿易圏からハブられた国です。経済ブロックからハブられた戦前の日本は、自ら大東亜共栄圏という経済ブロックの建設を意図するまでに追い詰められましたし、欧州のEU非加盟国は、かなりの痛みを伴う改革を断行してまでEUに入ろうとします。日本の貿易が中国一辺倒に傾く理由も、中国の発展だけではなく、欧州と北米からハブられたことにあります。壁の中に入れないことによる損失は、目に見えて大きいのです。

ですからTPPについての議論は、TPPから得られる恩恵ではなく、TPPからハブられたときの損失を考慮してなされなければなりません。世界のブロック化が避けられない趨勢であるなら、どこのブロックにも属さないのは衰退必至です。どこかに所属するか、自分でブロックを作るかしかないのです。

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2012年12月27日

アジアコンプレックス

20世紀、日本には2度グローバルパワーになるチャンスがありました。そして2度とも、同じような態度をしてそのチャンスを逸しました。

ひとつは、1990年の湾岸戦争です。

共産ブロックが崩壊し、アメリカも財政赤字を抱えて意気消沈していた当時、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」でした。すでに株式市場は急落していましたが、株価回復への期待は大きく、まだまだイケイケムードでした。

そんな中イラクがクウェートに侵攻。世界秩序を維持するためにアメリカが介入し、日本にも軍事的協力を要請しましたが、日本はきっぱりお断りしました。

主要国のほとんどが参戦したこの戦争に人員を派遣しなかった日本は、国際社会において大いに面目を潰し、さらにバブル崩壊が明白になると、アメリカから袖にされ、中韓から嫌がらせされ、坂を転がり落ちるように没落したのでした。

もしあのとき日本が参戦していたらどうなっていたのか?もちろんそれは、当時の国内政治の状況からして考えにくいことですが、もし参戦していたならば、世界の勢力図は大きく変化していたはずです。

なにしろ当時は冷戦構造が崩れ、新秩序の構築が模索されているときでした。圧倒的な経済力を誇示していた日本が、アメリカに乞われて軍事的にその一翼を担う意志を示したなら、政経軍三拍子揃ったグローバルパワーへと昇格する可能性は十分にありました。政治力に担保された経済も持ち直したに違いありません。

しかし当時の日本は政治家もマスコミも国民も内向きで、世界の変化をドメスティックな物差しでしか測れませんでした。世界は日本にグローバルパワーの席を用意していたのに、日本人にはそれが見えなかったのです。

グローバルパワーとなるもうひとつのチャンスは、1914年の第一次世界大戦です。

20世紀初頭の世界は、大英帝国が秩序を維持していました。しかし、世界の4分の1に及んだ広大な領土のあちこちで軋みが生じ、大英帝国時代の終わりを予感させていました。そんなとき、新進のドイツ帝国と全面衝突したのです。

日英同盟を結んでいた日本は、イギリスから陸上戦力の欧州派遣を乞われました。しかし日本は、「欧州に派兵したらアジアの秩序が守れない」「イギリスの犬になるのは嫌だ」などと派遣を拒否しました。そしてドイツのアジア植民地をちょちょいと占領して、欧州には小艦隊を派遣するくらいで、あとは大戦景気による金儲けに邁進しました。

戦後、日本は戦勝国として世界の五大国に数えられるようになりました。しかし、火事場泥棒的に最小限の出血で利益だけ手にした日本は、自分の利益のためにしか動かないずるい国という烙印を押され、戦後の新秩序構築において限定した発言権しか与えられず、日英同盟の解消と国際的孤立への種を巻いたのでした。

もし日本が陸軍を派遣していたらどうなっていたのか?

日本同様イギリスに派兵を乞われ、結局派兵したアメリカは、「自己中心の金儲け主義者」というそれまでのイメージから、大義を重んじる政治大国と見られるようになり、「民族自決」による戦後の新秩序構築を先導したものでした。

日本が派兵していれば、アメリカと並ぶ「大英帝国の掃除屋」として、世界新秩序の中で主役級の地位を得ていた可能性は大いに考えられます。当時のイギリス人は、自らの帝国を「人道的帝国」「寛容な帝国」と認識して誇りにしており、実際に第二次大戦後、帝国は人道と寛容の精神に押しつぶされて自壊しました。「人種的平等」を訴える有色人種の血により得られた勝利は、大英帝国の解消を20年早め、日本は有色人種の精神的支柱として、アメリカをも凌ぐ地位を得ていたかもしれないのです。

しかしそうした可能性は、日本人自身の内向きな態度により泡と消えました。

いや、1990年も1914年も、日本人に内向きという自覚はなく、グローバルな眼で国益を睨んでいると考えていました。1990年の日本人は、「海外派兵はアジアの人たちの反感を買う」と言い、1914年の日本人は、「欧州に派兵するとアジアの秩序を守れない」と言いました。日本人は日本人なりに国際的視野で身の振り方を判断し、ただ日本人の頭の中では、世界=アジアだったのです。

アジアの旗を掲げてグローバルパワーとなるチャンスを逃し、アジアの旗を掲げて無謀な戦争をし、今もアジアの特定国の顔色を伺って国の指針を決める日本。自分がその一員であるアジアに親愛の情を抱くのと、アジアコンプレックスであるのは違います。日本人はアジアコンプレックスであり、それを自覚し、克服することこそが日本の未来のためであり、またアジア全体のためなのです。

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2012年12月20日

リベラル退潮の理由

元朝日新聞編集委員の山田厚史氏が、なぜリベラルは退潮したのだろうと思いを巡らせていました。

中道左派=リベラル退潮の理由 溝埋まられぬ旧左翼と市民運動

彼は「中道左派=リベラル」を自認する人に違いありませんが、彼には大きな誤認があります。彼はこう書き出します。

自民圧勝の総選挙は「中道左派=リベラル」の退潮を印象付けた。米国でオバマ大統領を支えたのはリベラルであり、フランスのオランド大統領は社会党だ。格差を生み出すグローバル市場主義に平等志向で対峙する中道左派はなぜ日本で支持を得られないのか。

海外のいくつかの国で左派が躍進しているのは事実です。しかしその政策はさまざまです。フランスの社会党は、かつて積極的に原発を推進し、今は法人税の大幅控除と公共支出削減を打ち出していますし、2010年に下野したイギリスの労働党政権はグローバリズムを推進し、対テロ戦争にも積極関与していました。そしてオバマ政権の政策は、前回書いたように自民党の政策と変わりません。

一口に中道左派(アメリカ流の言い方でリベラル)と言っても、各国ごと、またその時々により政策はそれぞれなのです。肝心なのは、中道左派たる大きな理念、軸足の置き方です。ではそれは何なのか?著者は言います。

リベラルの要素を平等社会・環境との共生・平和重視に置くなら、未来の党から緑の党まで、あるいは民主党の一部まで、多少の温度差はあっても理念は共通している。現実の政策では脱原発、反消費税増税、TPP反対、憲法9条改正反対などの国政の骨格である政策で足並みが揃っている。

だが組織の事情や過去のいきさつなど些細な対立で足並みが揃わない。

平等社会・環境との共生・平和重視?日本の格差の小ささは世界屈指ですし、環境基準の厳しさ、エコな生活ぶりも世界屈指です。そして半世紀以上どこの国とも交戦していない、世界でも稀有な平和国家です。

平等社会・環境との共生・平和重視を中道左派の要素とするなら、日本はそれらを愚直に実践してきた国なのであり、それを率いてきた政党は、他ならぬ自民党なのです。

小泉政権の一時期を除き、自民党は常に、公共支出と規制による社会コントロールを主眼として政治をしてきました。これは諸外国では、社民党の仕事です。世界基準で言えば、自民党は立派な中道左派政党なのです。

では自称中道左派な方々は一体何なのか?

ずばり彼らは急進左派です。例えば彼らの多くは愛国心を否定し、日の丸を手にして選挙応援するのは極右と決めつけているようですが、星条旗はためく米民主党の応援はもとより、今年行われたイギリスの市長選やフランスの大統領選でも、左派政党の支持者は国旗を手にして応援しました。

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愛国心を排外主義と同一視して否定する中道など論理矛盾です。そんな勢力が国民的な支持を集められないのは当然であり、また些細な理由で分裂、内部抗争するのも急進派の宿命なのです。

今日本に必要なのは、自称リベラルこと急進左派の復活ではありません。中道右派の形成です。今回の選挙では、世界基準における保守の条件を備える「維新」と「みんな」が躍進し、比例選で両党合わせて自民の得票率を超えました。彼らを中心にして中道右派がまとまれば、中道左派の自民と対峙する二大政党制が完成するのです。

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2012年12月19日

右翼は保守で保守は左翼

維新の会の橋下氏が、選挙後の記者会見で、アメリカ人記者に息巻いたといいます。

《在阪記者から質問が相次ぐ中で、「ジャパンタイムズ」所属の米国人記者からも質問が出る》

−−海外でこの選挙が注目を浴びている。海外のイメージは日本維新の会は右翼というイメージがある。外交はどのように考えているか

橋下氏「日本維新の会が右傾化しているというが、核兵器もって軍隊もっているアメリカとどっちが右傾化なのか。ビンラーディンを殺害したときは他国の主権の中にどんどん踏み込んでいっている。それと日本維新の会と比べてどう右傾化しているのか。核兵器についてどういうことになるのか頭の片隅に入れるというのは当たり前のことだと思う。どこが右なのか最初の前提を教えてほしい」

「米国に右傾化と言われたくない」 橋下氏、米記者に論戦挑む

橋下氏は「右翼」と呼ばれることが不満なようです。

日本では、右翼という言葉は非常に悪い響きがあって、ネットで右翼的な主張をする人たちも、「オレたちは真正保守だ」とは言いますが、「オレたちは真正右翼だ」とはまず言いません。

日本における「右翼=危ない奴」という先入観は、橋下氏の返答にもよくあらわれています。橋下氏は、右翼と名指しされたことに対して、「アメリカのほうが好戦的だからよほど右翼だ」と切り返しましたが、好戦性に右翼左翼は関係ありません。「右翼=タカ派」と思い込んでしまうのは、左翼のプロパガンダに毒されている証なのです。

アメリカでもヨーロッパでも、「クオリティ・ペイパー」に左翼が多い関係上、右翼は悪い意味で使われがちではあります。しかし、右翼に極がつかない限りは日本ほど危険な響きはなく、あくまで政治的位置づけを表す言葉としてとらえられています。

では、維新の会はどう位置づけられるかというと、紛うことなき右翼です。より正確に言うなら、「右翼ポピュリスト」です。日本でこう言うと、「極右衆愚政治」という感じで最低の称号です。しかし、海外でRight Wing Populist と呼ばれても、必ずしも悪ではありません。

アメリカとヨーロッパでは呼称が一致していないので、混乱を避けるために、ここではアメリカでの呼称で説明します。アメリカで右翼というのは保守のことであり、米共和党的な政治姿勢を指します。すなわちそれは、「政治権力は人々の営みをなるべく邪魔しない」という姿勢です。

維新の会は、ときにリバタリアン的ですらある自由主義を掲げているので、ずばりこの範疇に入ります。また、ポピュリズムというのは、必ずしも衆愚政治のことではなく、「既存の体制を、大衆の支持を背景にして刷新する」という姿勢を指すので、これもずばり維新の会に当てはまります。

従って維新の会は、右翼ポピュリスト以外の何物でもありません。橋下氏は、今後はこうした事情を理解して、冷静に対処すべきです。今回のように頓珍漢な対応をしていると、基地外極右のレッテルを貼られるだけです。

ところで、海外と日本の政治カテゴライズの差が最も珍妙に表れるのは、自民党です。此度の選挙結果は「自民党圧勝で保守政権奪回」などと海外で伝えられていますが、アメリカ人からすると「???」です。

なぜならば、自由民主党を英語にするとLiberal Democratic Partyであり、アメリカでは「リベラル=左翼」を意味し、また「リベラル=民主党」だからです。だから自民党は「左翼主義左翼党」ということになり、それを保守と言われるとどうにも違和感があるのです。

しかもこれは、ただの言葉遊びではありません。今の自民党は、中央銀行の独立を犯して金融緩和し、公共事業拡大により景気回復すると訴えていますが、これは米民主党の中でも最左翼の発想です。自民党は、名称も政策もガチガチの左翼なのに、なぜか日本では保守と呼ばれているのです。

昔からよく言われるように、日本は世界で最も成功した社会主義国家であり、中国の保守がゴリゴリの共産主義者であるように、日本の保守は模範的社会主義者ということなのかもしれません。

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2012年12月17日

小沢一郎は終わるか

今回の選挙には勝者はいない、と言われます。その通りだと思います。しかし敗者はいます。それは民主党であり、未来の党であり、一口で言うなら小沢一郎です。

1980年代の末以来、小沢一郎は日本の政治を動かすキーマンでした。しかし今回の選挙の結果、「維新」と「みんな」が民主の残党と手を組むというバカな選択をしない限り、小沢一郎は政局に何ら関与できない立場に転落しました。過去20年で初めての状況です。

では小沢一郎とは何かと問えば、「反自民」です。1990年代初頭に自民党を飛び出した頃の小沢一郎氏は、外交的にはタカ派であり、また「新自由主義者」でした。しかし小泉政権時代に自民党が自由主義×タカ派に舵を切ると、それまでの姿勢を180度転換して、社民主義的経済政策×ハト派な主張をするようになりました。小沢氏には確固とした政治理念はなく、とにかくただ「反自民」なのです。

あれから20年、小沢一郎は自民党を壊せませんでした。「国土強靭化計画」を掲げた自民党は、20年前の姿そのままです。結果だけを見るならば、小沢一郎の闘争は、サヨク勢力を抱きかかえて自爆するという、わけのわからない終幕を迎えたのです。

もちろん小沢一郎復活の可能性はないわけではありません。サヨクの残党となんとなく組んだまま、「日本改造計画」をポケットに入れてちらつかせれば、維新を抱き込んでの「反自民」再結集はありえないシナリオではありません。

しかし、そんなことをして何になるのでしょうか?今回自民党は、圧勝こそしましたが支持率は落としています。「自民vs反自民」という枠組み自体が意義を失いつつあり、小沢一郎の最大の敗因はそこにこそあるのです。

であるならば、今望まれるているのは、自民でも反自民でもない価値観を持った政党、要するに、「政治理念など二の次で、政局次第でころころと主張を変える野合」ではない集団、マニフェストではなく、イズムを示せる集団ということになります。

その一番の早道は、小沢氏が自民党に復党することです。そのとき小沢一郎という政治システムの本質は誰の眼にも明らかになり、政治は大きく動くに違いないのです。

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2012年12月15日

二大政党制の終焉と危機

最近、自民vs民主という実現しかけたに見えた二大政党制の崩壊を予見して、二大政党制の瓦解とともに軍国主義化した戦前の日本と現代を比較した論考をあちこちで見かけるようになりました。

そう、戦前の日本は、「大正デモクラシー」と謳われた民主化風潮の中、保守の「政友会」と自由主義的な「民政党」による事実上の二大政党制が実現していました。しかし、両党は政争に明け暮れて政治混乱を招き、軍の介入を招いたのです。

この比較に従えば、民主党壊滅後の「総右翼」状態は、中国大陸での紛争から対英米戦へと突き進んだ暗黒時代ということになります。

しかしこの見方は安直すぎです。確かに、現代と20世紀初頭の政治状況は比較に値します。しかし、世界の政治トレンドを考慮し、世界の中の日本を見なければ片手落ちです。そして世界の政治潮流を考えたとき、そこにはまるで違う風景が見えてくるのです。

では20世紀初頭の世界の政治トレンドはいかなるものだったのでしょうか?一口で言えば、当時の世界は大きなパラダイム転換を迎えていました。

それ以前、19世紀後半の欧米各国における政治は、保守勢力と自由主義勢力の対立を軸に動いていました。しかし20世紀の初頭にその構図は崩れました。それが最も明確に表れたのはイギリスです。

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イギリス主要政党の得票率推移


それまで保守党(青)と自由党(黄色)の二大政党で動いていたイギリスでは、この時期に自由党が劇的に退潮し、代わって急速に台頭した新たな勢力(赤)が二大政党の一翼を担うようになりました。社会主義を信奉する労働党です。

19世紀中頃までは、自由主義はまさに革新的な政治思想でした。しかし、自由主義が社会に浸透し、保守勢力が自由主義的政策を取り入れるに至り、保守vs自由の対立軸は消滅してしまいました。一方で工場労働者の増加で社会主義思想が広がり、保守/自由vs社会主義という新たな構図が生まれたのです。

同じような状況はアメリカでも見られました。南北戦争後のアメリカでは、自由主義的な共和党と保守的な民主党が二大政党を形成し、元来自由を尊ぶ土地柄、共和党の独壇場が続いていました。しかし20世紀を迎える頃から、社会主義的な政策を掲げる「進歩党」が第三極として登場するなど既存の枠組みが崩れ始め、1920年代末には、民主党がアメリカ流の社民主義である「リベラリズム」を信奉する政党に変身するに至りました。

このように、20世紀初頭の世界は、社会主義というニューウェーブの台頭により、従来の政治構図の崩壊と再構築の時を迎えていたのです。

その兆しは日本でも見られました。欧米からやや遅れて社会主義運動が盛んになり、1930年代には「社会大衆党」という社民主義政党が第三極にまで成長していました。1920年代に成立した保守vs自由という日本の二大政党制は、成立した当初からすでに時代遅れであり、早晩瓦解することを運命づけられていたのです。

20世紀前半に暴走した国には共通点があります。ドイツ、日本、イタリアの枢軸三国は、台頭著しい社会主義思想を手なずけ、イギリスやアメリカのように穏健な形で政治システムに取り込むことに失敗しました。その結果社会主義思想は歪な形で過激化し、社会を全体主義へと向かわせたのです。

イタリアとドイツでは、社会主義政党は早々に政治の表舞台に立ちました。しかし第一次大戦後の社会混乱があまりに大きすぎ、社会主義勢力は大分裂。過激分子の中から、階級闘争を民族闘争に差し替えた国家社会主義が勃興するに至りました。

日本の場合は、社会主義政党の主流化が遅れすぎていました。そのため、社会主義思想は政党政治ではなく、軍人や官僚の「革新化」として発芽し、時代に乗り遅れた議会政治を捨てて、エリートの牽引で強引に社会改造を進める方向へと走りました。

マスメディアの画一的な情報に浴し、巨大資本による大量生産ラインで働いて大量生産品を消費し、社会の歯車として生きることを課せられた20世紀人にとり、社会主義は必要不可欠な解毒剤でした。それを民主主義の枠内で受容できるかどうかが明暗を分けたのです。

さて、そんな100年前の状況と今を比べると、現代の状況が当時と酷似していることに気づきます。

およそ100年前に成立した、保守vs社民という政治構図は、今はもう世界的に形骸化しています。保守勢力は社会主義的政策を取り入れて左傾化し、一方の社民勢力は民間の活力を重視する政策を取り入れて右傾化し、今や両者の差はほとんどありません。選択肢を喪失した有権者の二大政党離れは、どこの国にも共通して見られる現象です。例えばイギリスでは、1970年頃までは9割の有権者が保守党か労働党に投票していたのに、今では両党合わせての得票率は6割程度にすぎません。

一方で社会構造も大きく変化しています。すでに1970年代から「蟹工船」的なブルーカラー像は過去のものとなり、特にインターネット普及以降は、人々の置かれた状況は大きく変わりました。クリス・アンダーソンが「MAKERS―21世紀の産業革命が始まる
」で描いているように、21世紀人はもはや歯車として生きる必要はないのです。

ですから、問題なのは二大政党制の実現失敗による左派の退潮ではなく、その次なのです。社会主義的な考え方、アメリカ流に言えばリベラルな世界観は、此度の選挙で勝つだろう「右翼」の中にも十分すぎるほど根を下ろしており、それについて心配する必要はありません。

戦前の失敗に学ぶのならば、旧い政治構図を一刻も早く捨てて、新しい時代に合わせた新しい対立軸ーー脱歯車時代に合わせた政治理念を確立し、新しい政治構図の構築に傾注せねなりません。それに失敗したとき、社会は罰を受けるのです。

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2012年12月11日

政治をスルーすることの意義

選挙中だけあって、ネットと政治の融合を考えようだとか、タレントもどんどん政治発言すべきだとか、若者はより積極的に政治参加すべきだとか、そんな話をあちこちで聞きます。

こういう呼びかけに、何らおかしなところはありません。しかし、どこか白々しさを感じて引いてしまう人も多いと思います。そうすると、「それが日本人の悪いところだ」「欧米では家族間、友人間で政治の議論をするのは普通のこと。そうやって政治意識を持たないと、この国は変わらない!」なんて力まれてしまいます。

たしかに欧米、とくにヨーロッパ人の政治意識は高いです。しかしその内実は、大方の日本人の想像とは違います。仕事がなくなると「仕事くれー!」とデモし、物価が上がると「物価下げろー!」とデモし、「カネ持ちからカネを巻きあげて、社会保障と公共事業でバンバンみんなに分配しますよー」などと主張する政党に嬉々として投票して、結局実現できなくてますます不景気になり、仕方ないので企業優遇して、そうすると「話違うぞー!」とまたデモる。その程度のものです。

つまり彼らの政治意識というのは、必ずしも政治について深く考えて政治参加するというわけではありません。社会のあらゆる問題を政治の問題としてとらえ、政治の力で解決しようとする、そんな発想のパターンをしているにすぎないのです。

だから「高い政治意識=より良き政治」ではありません。それは、19世紀から今日にかけて、ヨーロッパが生んだ政治作品を見ればわかります。植民地主義、共産主義、国家社会主義、そして今は巨大な時限爆弾であるEU。まるで世界の癌です。

もちろん悪いことばかりではありません。「ものごとを政治的にとらえる」というヨーロッパ人の姿勢は、社会に欠かせない政治というシステムを改善し、人類の進歩に貢献してきました。ただ政治は万能ではないのです。ヨーロッパの政治オタクぶりは、そこから学ぶことは多いとしても、成り立ちの違う別の文明が一様に模倣すべき姿勢とは言えません。

ヨーロッパ文明から派生したアメリカ文明は、ヨーロッパの伝統をある程度引き継ぎ、政治意識もなかなか高いですが、ヨーロッパ文明のアウトサイダーたちにより築かれただけあり、ヨーロッパとは異質な世界観を育みました。世界をビジネスとして眺める姿勢です。アメリカ人は、社会の停滞をビジネスで打開しようとするのです。そこでは政治は、ビジネスのしやすい環境と、ビジネス・イノベーションの生まれやすい土壌を作るサブ的役割しか与えられていません。

ビジネスは社会において重要なピースですが、政治同様万能ではありません。他の文明はアメリカから学ぶべきことは多くても、アメリカのようになるべきとは言えませんし、なれません。それぞれの文明には、それぞれに違う視点があり、社会的難題の乗り越え方もまたそれぞれなのです。

では日本文明は社会の危機をどのように克服してきたかというと、たいていの場合、現実に背を向けて苦しみを乗り越えてきました。無常を尊び、もののあはれを愛でる日本人は、世の中が不穏になるとき、現実と格闘して変化を勝ち取るのではなく、現実をスルーして内面に平和を見出すことで苦難を乗り越えてきたのです。

と書くとただの負け犬のようにも見えますが、そうではありません。歪んだ社会を放置しておくと文明は滅んでしまいますが、日本は長きに渡り西欧文明に負けない物質的繁栄を築いてきました。日本文明は、現実に背を向けつつ現実を改良するシステムを備えているのです。

それは、日本史において社会不安が高まるたびにあらわれる奇妙な現象、「傾(かぶ)く」行為にあると考えます。

傾くとは、社会の権威に背を向けて、派手な格好や突飛な行動をすることを指します。南北朝時代の「ばさら」、戦国時代の「傾奇(かぶき)者」、さらには幕末の「ええじゃないか」と、日本史においては、大きな時代の変わり目になると、殺伐たる現実をスルーして、世の権威を笑い蹴飛ばすようなふざけたムーブメントが起きるのです。

これは、ユング心理学における「トリックスター」=道化にあたります。トリックスターは、組織の再生や新たな価値の創造には欠かせない存在とされます。バカなだけに世間のあらゆる常識やしきたりをスイスイと飛び越えて従来の価値観をかき回し、それにより硬化した社会秩序を破壊し、思いもよらない変化を招来するのです。

歴史的に見て、日本文明はどうもこのトリックスターによる破壊と再生を、システムとして内包しているように思えてなりません。社会問題をスルーすることによる社会変革です。

ヨーロッパに倣い政治的に社会改良を志すのも、アメリカに倣いビジネス・イノベーションで世の中を変えようとするのも大いに意義のあることです。しかし、政治をスルーした、一見非建設的な傾く行為も、特に日本のような文明的性癖を持つ社会においては、決して無意味なことではありません。というより、むしろこの国の変化は、そこからしか生まれてこないに違いないのです。

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2012年11月17日

今回は選挙ではなく裁判である

野田首相はやるなー、と思いました。

民主党の選挙課題は自民党に勝つことではなく、反自民票をいかに取り込むかです。相手が自民党だけなら、いくら民主党が信任を落としたところで、それなりの反自民票を得ることができます。しかしもし「第三極」ができてしまうと、反自民票はそちらに流れてしまいます。ならば座して「第三極」が結集するのを待つのではなく、バラバラで油断している今叩いてしまえ、というわけです。

なかなかの計算力と行動力で、軍の軍団長にでもしたいような、民主のトップにしておくのは惜しい逸材だと思います。

党利党略として果断なのに加え、日本という国家にとっても、今解散するのは悪い話ではありません。もし任期満了まで解散しなければ、中国の新体制も第二次オバマ政権も、下野確実な民主政権と何ら交渉できず、風雲急を告げる世界で、日本は8ヶ月以上宙ぶらりんになってしまいます。2013年末に大きく動くだろうユーロ情勢についても、ユーロ後を睨んだ交渉に出遅れてしまいます。

今年中に新政権が発足すれば、どこの党がどんな政策でのぞむかに関係なく、日本の外交空白は最小限ですみます。

しかしナイスなのはそれくらいです。いかに野田首相が有能だろうと、解散が歓迎すべきことだろうと、選挙として見るなら、今回の選挙は最悪です。詐欺集団を下野させるのは当然としても、積極的に応援したくなる政党が存在しないからです。自民党は何も変わらないどころか劣化してしまい、それに変わる政党はまだ育っていません。

ただしそれは、選挙として見た場合です。今回の選挙は、次の政権党を選ぶ選挙ではありません。政治理念だとか、マニフェストで選ぶ選挙でもありません。今回の選挙は、国民対詐欺師の勝負であり、詐欺師たちを裁く国民裁判です。

まずは詐欺を働いた実動部隊を裁かねばなりません。民主党については、いかに正しい主張しようと、いかに野田氏が有能な人間であろうと、話を聞いてはいけません。過去3年、涼しい顔でありとあらゆる約束を反故にした彼らはサイコパス集団であり、同じ手がまた通用すると思わせたら、国民は未来永劫舐められ続けます。

ただ民主党を負けさせるだけでなく、民主党と民主離党組の賊議員たちを衝撃的なレベルまで駆逐せねばなりません。小選挙区では、個人の趣向を捨てて民主の対立候補に投票し、一人でも多く路頭に迷わせるのです。国民を舐めるといかに恐ろしいことになるかを目の当たりにした政治家たちは、次の選挙では多少なりとも誠実に振る舞うようになるはずです。

そして詐欺の本丸、マスコミに鉄槌を下さねばなりません。民主党などという、少し冷静な眼で見ればすぐに見抜けるパペット集団に権力を預けたのは、マスコミの煽りあればこそでした。あの過ちを二度と繰り返してはなりません。マスコミは選挙のテーマをそれらしく提示してくるに違いありませんが、今回は普通の選挙ではないので徹底無視し、マスコミの主張は逆が正しいのだと肝に銘じ、マスコミの面目を丸つぶれにするのです。

そうすれば、新聞とテレビの方を向いて政治をしてきた多くの政治家は、次からは有権者の方を向いて政治をするようになります。政治家から一目置かれなくなったマスコミは、いよいよ裸の王様です。

理念や政策を抜きにして選挙するなんて、と呆れる人もいるでしょう。しかし今回の選挙は、理念や政策で選ぼうとすると選びようがなく、結果として民主党とマスコミを利するだけです。

今回の選挙で唯一国民が得する選択は、民主党とマスコミを徹底的に叩くことであり、そうすることで、次の総選挙で選挙らしい選挙ができる可能性が膨らむのです。

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2012年02月23日

傀儡として生きないために

体が痛いです
体が辛いです
気持ちが沈みます
速く動けません
どうか助けてください
誰か助けてください

職場の仕事がきつくて苦しくて、こんな日記を残して自殺してしまった女性。どうして彼女は逃げなかったのだろうと思います。

ワタミ社員の過労自殺を認定 入社2ヶ月の26歳女性

彼女を苦しめたのは、直接的には彼女を雇用していたワタミの職場です。しかし彼女を奴隷にしたのは彼女自身です。首輪にカギはついていませんでした。首輪を外して逃げても、誰も彼女を脱走奴隷のように追跡したりしません。それなのに彼女は「誰か助けて」と呟きながら毎日自ら首輪をつけて拷問部屋に戻り、最後は自ら自分にとどめを刺したのです。

こういう人に「ガンバレ」と助言するのは、内なる悪魔に餌を与えることでしかありません。その逆に、「首輪をすてろ」と助言するのも絶望を深めることにしかなりません。よほど強い人間でなければそんなことはできないからです。

人はみな、なにかに心を支配され、首輪をつけて生きています。内なる悪魔に体を支配されないためには、たえずその首輪を意識するしかないのだと思います。

首輪を意識しない人は傀儡(くぐつ)になります。顔のない「マス」の一部となり、自分の行動も言葉も、自分のものではなくなっていきます。

それは弱い立場の人間だけに起きることではありません。ワタミ会長の渡邉美樹氏がつい先月書いた次の言葉の、まるでコンピュータに自動で書かせたのではないかと思えるほどに気味の悪い軽薄さは、彼もまた、傀儡であることを示しています。

14年連続で毎年3万人以上自ら命を絶つ社会が真に豊かと言えるだろうか。我々はあまりに、無関心になってはいないか。その膨大な数に痲痺していないか。

政府のなかに内閣府自殺対策推進室がある。しかし、自殺はいっこうに減らない。3万人ひとりひとりの自殺の背景をどれだけ細かく把握しているのか。それがなければ対策も何もない。

自殺者は社会のカナリアだと思う。カナリアは坑道などでいち早く有毒ガスを検知する。「我々の社会はおかしいぞ」と自殺者の方々は、自らの命を絶って訴えているのかもしれない。

「自殺者ゼロの社会」。 都知事選で訴えさせてもらった。実現できたらどんなにすばらしいことだろう。

ーーー「14年連続自殺者3万人」の国、日本

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2012年01月30日

「ハシズム」の本質

精神科医の香山リカさんが、1月27日に放送された「朝生」について書いています。

テレビの前で議論しても残る 橋下市政への違和感

文章だけ読むと、なるほどねーという感じですが、あの番組を見た人なら、呆れてしまうはずです。それほどまでにあの番組の、精神科医の香山リカさんを含む反橋下派の人たちは、ひどいものでした。ぼくはもともと、橋下氏にも維新の会にもあまり関心がなかったのですが、あの番組を見てよくわかりました。彼が推進する大阪都構想は、非常に説得力のある構想です。

「朝生」は、決して橋下氏をもちあげるような構成ではありませんでした。しかし結果として、ぼくのような「橋下しろうと」にも、彼の考えと行動を納得させてくれるほどに、橋下氏のワンマンショーでした。普通は政治家の話など、いかに説得力があろうと眠たくなるものです。でも、あの番組はとてもおもしろく、わかりやすく、彼の主張と魅力を伝えていました。

おもしろくてわかりやすい、などというと、反橋下派の人たちは、「だから彼は危険なのだ」と叫ぶに違いありません。でも、そうではないのです。生活からニュースワイドショーを極力排除しているぼくは、ネットで得られる記事を通じて、これまで橋下氏を、信念の政治家として好意的な印象を抱く一方で、キャッチーで甘い言葉を振りまくポピュリストのようにイメージしていました。しかし、あの番組を見てわかったのは、彼は特別おもしろくも、キャッチーでもないということでした。

確かに彼はプレゼン上手です。しかし彼のプレゼンは、たとえばかつての田中真紀子氏のように、ひたすら聴衆の感情に訴えて集団ヒステリーを煽る類のものではありませんし、スティーブ・ジョブスのような、カリスマで酔わせるタイプでもありません。ただひたすら理路整然としている、それに尽きるのです。

しかし彼のプレゼンは、スカっとします。その理由は、彼自身にあるのではありません。彼の敵、精神科医の香山リカさんのような人たちにあるのです。

いわば橋下劇場というのはプロレスのようなものです。反橋下派が「ヒャーッ!」とか「シャーッ!」とか雄叫びをあげながら、妙に仰々しい技で襲いかかるのを橋下氏に軽くいなされ、自爆して果てながらも、「フハハハハ!今日のところは見逃してやる。だが、第二、第三の反橋下派がお前の前に立ちふさがるだろう!」と捨て台詞をはくのが無性におもしろく、橋下氏のヒーローぶりを際だたせるのです。

だから、彼らが口にする「ハシズム」という現象の本質は、橋下氏のやり方でも、橋下氏を支持する世の中にあるのでもありません。「ハシズム」の本質は、理路整然として明晰なだけの橋下氏に震え上がり、そのくせドヤ顔で駄々をこねるしかできない反橋下軍団の歪みぶり、知的破産ぶりにあるのです。

冒頭にあげたエッセイで、精神科医の香山リカさんは、橋下氏が改革の末にどんな理想を描いているのか、それが示されないことに異議をとなえています。しかし彼女は、「朝生」でそのことを強く追及しませんでしたし、これまでもそれは、彼女の橋下批判の核心的な理由ではなかったはずです。ようするに彼女は、橋下氏への違和感、嫌悪感が先にあって、後付けでその理由をこねくりまわしているのです。

「朝生」を見ながら、ぼくは反橋下派の核心的動機を探ろうとしましたが、揚げ足取りばかりで結局最後までよくわかりませんでした。彼らは、橋下氏を嫌悪する理由を明確に述べることができず、むしろそれを避けているようにさえ見えました。なぜ彼らは橋下氏を嫌悪するのか?そしてその嫌悪の理由をうまく言語化できないのか?あるいは意図的にそれを避けているのか?心理学的にとても興味深いテーマだと思います。

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2012年01月15日

経済学者が自信満々なワケ

とても日本的な意見だなと思います。

なぜ経済学者は自信満々なのか

この記事の筆者は、専門外のさまざまなことに上から目線で口を出す経済学者の傲慢を批判し、「経済学教授はよっぽどヒマなのか、論文書けよ、さもなきゃ講義しろよと言いたくなる」と書きます。

このような意見の根元にあるのは、学者というものは、難解な専門分野の研究に全力を投入するべきであり、俗世間のことについてネットであれこれ発言するのは邪道だという考えです。

なるほど、とくに理工系の学問では、その見方は正しいのかもしれません。専門外のことにあれこれ意見するヒマがあったら、自分の専門分野に没頭して、新しい発見をすることに全力を注ぐべきなのだろうと思います。

しかし、ある種の学問についていえば、その見方はあたりません。経済学はその代表です。

経済学の目的は、経済の発展に貢献することです。そのためには、研究の成果が政策に取り入れられる必要があります。民主主義国家においては、それは民衆に支持されることと同義です。そのために、経済学者は民衆と対話しなければならないのです。

象牙の塔にこもり、画期的な経済原則を発見したところで、「講義や論文で忙しく、とてもネットに書いてる暇なんてない」状態で、その原則が民衆に伝わらないのであれば、ほとんど意味はありません。

それよりも、たとえ画期的な発見はできなくても、経済の基本について民衆を啓蒙し、ポピュリストの甘言にだまされないようにする方が、よほど経済の発展に寄与するというものです。

だから民主主義意識の強いアメリカでは、高名な経済学者でも積極的にブログを開設し、頻繁に更新しています。そしてたいていの場合、誰にでもわかる平易な表現で書かれています。

それぞれの経済原則を支えるには、もちろん難解な数式や専門用語を駆使しての思考が必要です。しかし経済学というのは、難解な部分だけで完結する学問ではなく、それをわかりやすい言葉でプレゼンできてはじめて完成する学問なのです。

日本では、経済学というと経済学用語を覚えることのような雰囲気があり、難解な専門性ばかりがフレームアップされがちですが、わからないものをありがたがる=言葉を権威付けに使う日本文化と、言葉を理解のための道具と見るアメリカ文化の違いかもしれません。

いずれにしても、そういう理由で経済学者は雄弁に語り、意見を異にする者と論戦を戦わせがちなのです。多くを語ろうとしない経済学者は、謙虚なのではありません。経済学者としての資質に欠けるか、民衆の理解など必要ない=経済は一部のエリートによる操作により決すると考えている経済学者です。

さて、そんな「よき経済学者」はいろいろなことに口を出します。たとえば原発問題などについて、「なぜか突然、放射性物質の知識が豊富になり、マスコミに代わって警鐘を鳴ら」したりします。しかしそれは、必ずしも傲慢だからではありません。

経済学というのは、「トレードオフ学」と言い換えてもいい側面があり、直情的な反応をしがちな世間に対して、それにより生じるトレードオフを示すのは、経済学者の仕事のひとつだからです。

ぼくは経済学の素人ですし、経済学者の応援団でもありません。しかし、経済学者の議論の柱にあるトレードオフの考え方などは、国民全員が常識として身につけるべきリテラシーだと思います。また、経済学者の意見を否定するのではなく、乗り越える形でなければ、何事においても有効性はないと考えています。

特に、先進国としては恥ずべき、空前絶後のポピュリスト政権を誕生させてしまった日本においては、今は経済学者を揶揄すときではありません。より多くの経済学者が、より平易な言葉で民衆に語りかけ、民衆の中で議論することを求めるべきときなのです。

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2011年11月30日

新自由主義一択の時代

大阪のダブル選挙は橋下一派の圧勝でした。橋下さんをポピュリストと呼ぶ人もいますが、彼はポピュリズムとは対極に位置する信念の政治家だと思います。彼の信念とは、民間にできることは民間に任せ、政府はできるだけコンパクトにするという新自由主義です。

だから、国家による統制を好ましいと考える国家主義者や社会主義者は、彼のことを蛇蝎のごとく嫌います。新自由主義の誤謬は明白であり、アメリカでもヨーロッパでも、すでに時代遅れと見られているなどと主張して、彼のような考えを持つ人を貶めようとします。

しかしそうなのでしょうか?

なるほどリーマン・ショック後、アメリカでは社会主義風なオバマ政権が誕生しました。もともと社会主義的傾向の強いヨーロッパの各首脳は、競うように規制強化を叫びました。そして日本では、「市場原理主義をぶっとばせ!」を合言葉に民主党政権が誕生しました。あのとき、確かに世界は新自由主義を捨てたように見えました。

それで結局どうなったでしょうか?オバマ政権は、マネーゲーマーのカネを持たざる者に分配するという掛け声ももなしく、前任者顔負けでマネーゲーマーたちを保護しまくり、また国家主導でグリーン・エネルギー産業を育成するというニューディール政策は無残に失敗し、自由貿易で企業を強くするという新自由主義路線に希望を託すありさまです。ヨーロッパでは、各国とも債務危機で公共事業の拡大などできるはずもなく、逆に社会保障費をガリガリと削り、その挙句先日行われたスペインの総選挙のように、規制緩和を訴える保守政党が大躍進しています。

要するにこういうことです。金融危機の勃発後、新自由主義をよろしく思わない勢力は、時代の追い風を得て社会主義的な政策を実行しようとしましたが、いざ責任ある地位についてみると、それは危機をより悪化させる自殺行為でしかないことを認めざるを得ませんでした。そしてこの危機を脱するには、行き過ぎた市場主義を是正するどころか、市場主義を推進するしかないという現実の前に、膝を屈するに至ったのです。

ですから、我々が持つべき正しい認識は、「新自由主義は終わった」ではありません。「新自由主義しかない」ということなのです。勘違いしないでほしいのですが、これは新自由主義の勝利ということではありません。現況を見ればわかるように、新自由主義は問題だらけです。しかし、それに代わるオプションがないのです。そしてそれこそが現代の抱えた最大の問題のひとつなのです。

とんでもない額の大金をちょちょっと稼ぎ、失敗しても税金で助けてもらえる一部の特権層がいる反面、働きたいのに仕事がなく、自己責任の一言で捨て置かれる人がゴロゴロいるというのは、なにかがおかしい。おかしいけれど、それを解決する既存の手法もなければ、解決のヒントとなる思想もないので、ただおかしいと訴えるしかない。オキュパイ・ウォールストリートなどはその象徴で、建設的なアイディアを示せないから、ただ駄々をこねているようにしか見えず、というか実際駄々をこねているだけで、おかげで未来を変えるムーブメントになりようがありません。

この「なにかがおかしい」という感覚にぴったりと合った言葉が見つかったとき、21世紀にふさわしい新しい潮流はそこから始まるはずです。古めかしいサヨク思想や国家主義思想にしがみついて、新自由主義は周回遅れなどといくら叫んだところで、新自由主義は滅びません。新自由主義が憎ければ、新自由主義一択の現状を認めた上で、一刻も早く言葉を見つけることです。

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2011年11月11日

1923/201X

1900年代初頭から1920年代初頭は、日本という国家にとってすばらしく幸福な時代でした。日露戦争に勝利して列強に名を連ね、経済は大いに発展し、物質的豊かさと平和の中で民主主義は発展し、文化に花を咲かせました。

その繁栄を支えた日本外交の柱は、日英同盟でした。

イギリスの側面援護なくして日本の日露戦争勝利はありませんでしたし、その後朝鮮併合を経て中国大陸に国際社会の合意の下で権益を広げられたのは、当時のスーパーパワー、大英帝国の後ろ盾あればこそでした。

しかしこの幸せな結婚は1923年に終わりを迎えました。

その最大の理由は、アメリカの圧力です。第一次大戦で疲弊したイギリスにかわり、世界一の大国の座についたアメリカは、アジア・太平洋地域における主導権を握るうえで日英同盟を障害と認識し、その破棄を求めたのです。

以降、大日本帝国は国際社会の中で孤立し、破滅への坂を転がり落ちて行くことになります。しかしアメリカを恨むのはお門違いです。なぜなら、いかにアメリカの圧力を受けようと日英同盟の継続は十分に可能で、その可能性をつぶしたのは他ならぬ日本自身だったからです。

第一次大戦時の時事評論を見ると、次のような表現があちこちに見つかります。

英国の我が国に対するわがままは実に指を屈するにいとまあらず。これに反しわが外交家がほとんど英国の忠僕たるの感ありて、ほとんど手も足も出ざる感あるは情けなき次第なり。

加藤外相は英国の帰化人にしてしかして英国の外務次官なり

日本はドイツを敵としながら全然行動の範囲を限定せられたるものなり。これに反し英国は天涯地角、ドイツ領の存在する所にはことごとく攻略の手を伸べつつあり、彼には完全なる行動の自由あり、我には絶対的束縛あり。

こうしたことばから読み取れるのは、同盟国イギリスに対するルサンチマンです。当時の日本人は日英同盟をありがたがるどころか、イギリスばかりに都合の良い屈辱的関係とすら見なしていたのです。

それはある面事実でした。日露戦争後のアジアは日英を軸に回転していましたが、盟主はあくまでイギリスで、日本はイギリスの権益をガードする見返りとして褒美にあずかる構図でした。両国の圧倒的な国力差を鑑みれば、これは決して日本に損な関係とはいえません。しかし日本人は不公平と感じ、その思いは第一次大戦において表面化します。

第一次世界大戦(1914〜1918)で、日本は小艦隊を地中海に派遣し、輸送船の護衛任務についたことはよく知られています。しかしそれは、未曾有の総力戦を戦うイギリス人の目から見ればぜんぜん不十分でした。イギリスは再三陸戦部隊の派兵を要請しましたが、日本はこれを拒否。日本の言論界は、日本に不利益しかもたらさない欧州派兵は天下の愚論とこき下ろし、派兵の可能性を匂わせた大隈首相に売国の烙印を押しました。

それどころか日本は、同盟国の国難に乗じて中国での権益拡大に走りました。いわゆる対華21か条要求はこのとき出されたものです。中国人のナショナリズムに火をつけたその内容もさることながら、出したタイミングはまさに火事場泥棒で、卑劣と言う他ありません。

こうした様子を見たイギリスは、日本は自分の利益ばかり追求して国際社会の一員としての責任を負おうとしない、信用のおけないオポチュニストだという印象を強くしました。そして戦後、アメリカから同盟破棄の圧力を受けたとき、アメリカとの友好と日本との同盟継続を天秤にかけて、アメリカを選んだのです。

それはイギリスにとり簡単な選択ではありませんでした。同じアングロサクソンの国とはいえ、アメリカはイギリスの植民地帝国を白い目で見ていましたし、孤立主義でイギリスの国防に協力してくれるわけではありません。一方日本と組めば、アジア・太平洋地域に展開する戦力を減らして経済復興に専念できますし、アジアの植民地におけるナショナリズム抑制の効果も期待できます。同盟の解消は、大英帝国の没落を加速しかねない苦渋の選択でした。

では日本はどうか?傲慢なイギリスに屈辱を感じ、いかにイギリスに懇願されようと、「日本はイギリスの番犬ではない。国益に反することなどできるか!」と毅然とした態度を通した日本は、さぞかし不平等同盟の解消を歓迎したに違いありません。

しかしそうではありませんでした。戦争が終わり、日英同盟の解消を目の前につき付きられたとき、日本は「あ、孤立した」と気づき、困惑したのでした。

しかも、衰弱したイギリスにかわりアジアに乗り出してきた新進超大国アメリカは、イギリスよりも厄介な相手でした。大国とはいえ弱みを持ち、帝国の維持のために日本を必要としたイギリスに比べ、アメリカは日本を必要としません、というか中国に進出する上で日本は邪魔者でしかありませんでした。アメリカとの交渉に駆け引きの余地はなく、アメリカの温情にすがるしかありません。イギリスとの関係に屈辱と感じた日本人は、目先の利益に心奪われた挙げ句、自らをより屈辱的で危険な立場に追い込んだのです。

第一次世界大戦は、19世紀的価値観が劇的に倒壊し、文化、政治的にパラダイムの転換が起きた歴史的大事件でした。そういう時期に近視眼的に振る舞うとどうなるのか、100年前の日本は最高の教材を提供してくれます。

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2011年08月23日

日本人と「責任」

先日、日本人観光客がナイアガラの滝に転落してしまうといういたましい事故がありました。犠牲となった女性は、いい写真を撮ろうと手すりをまたいで川に落ちてしまったのですが、こういう事故があると、必ず出てくるお決まりの反応があります。

「自己責任だ。警告があるのにそれを無視して危険なことをするようなバカには同情の余地はない」というやつです。

一方で、やはり先日おきた天竜川の川下り船転覆事故のようなことがあると、今度はこんな主張が声高に叫ばれます。「安全に対する意識が低すぎる。ライフジャケットの着用を義務づけるべきだ」

こういう傾向は、とくに日本において強いと感じます。ぼくは日本人論は嫌いですが、こうした反応は決してユニバーサルなものではありません。たとえばナイアガラの滝の一件においては、彼の地で自己責任論を唱えて犠牲者を批判する声はほとんどありませんし、また事件を伝えたカナダのテレビニュースには、2分程度の短いリポートの中に、日本では考えにくい描写が2ヶ所もでてきます。続きを読む

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2011年01月06日

文明のエンジン

アメリカの、特に共和党よりの自由主義者たちは、ヨーロッパ諸国の政治のあり方をとても軽蔑しています。ヨーロッパには「大きな政府」を奉じる福祉国家が多いからです。そんなことでは何のイノベーションも生み出せない。だからヨーロッパは老人なのだというわけです。

しかしよくよく見てみると、ヨーロッパというのは、ヨーロッパ独特のやり方で、自由の国アメリカも顔負けな自由さを維持していることに気がつきます。

ひとつひとつの国はやたらと規制にうるさく統制的であるけれど、各国ともにそれぞれ方針が違うので、息苦しくなったら国境を越えればいいのです。これはなにもEUができてからの話ではなく、ずっと昔からそうでした。18世紀の音楽家は、理解あるスポンサーを探して各国を渡り歩きましたし、ある国で迫害された思想家や科学者は、別の国で保護されることで活動を続けました。ヨーロッパの文化は、そういう多様性の中で育まれ、世界を支配するに至ったのです。

そんなヨーロッパ式多様性の優越性は、たとえば大航海時代のヨーロッパと中国の差に如実に現れています。中国の明王朝は、当時としては空前の規模の大艦隊(鄭和艦隊)を編成し、ヨーロッパに先駆けてアフリカ東岸に至るまでの大航海を実施しました。しかしこの大国家事業は国庫を圧迫するばかりで、中央の方針が変わるとピタリと海外進出を停止し、残された航海記録まで破棄されてしまいました。まさに歴史のあだ花、中央集権国家の悲しさです。

一方ヨーロッパの場合、遠洋航海はベンチャービジネスとして始まりました。有能な探検家は国境を超えて計画を売り込み、各国はそれぞれの思惑からそれぞれのタイミングで参入し、ポルトガル、スペイン、フランス、オランダ、イギリスと競争の中で主役は入れ替わり、海外進出は途絶えることなく続きました。その過程で航海技術は進歩し、リスクを軽減するために株式や保険の制度も発展し、後の産業革命に向けて富を蓄えたのでした。

ヨーロッパというのは、個々の国々を見ると統制的かつエリート主義的でろくなものではありませんが、国境を閉じずに各国が競いあうことで、文化の発達とイノベーションに必要な多様性と自由競争を確保してきたのです。EUがヨーロッパを殺すと言われる理由もそこにあります。EUが政治統合を強めれば強めるほど、ヨーロッパの活力は失われてしまうのです。

そんなヨーロッパのあり方に照らすと、逆になぜアメリカが個人の自由というものに強くこだわるのかもよくわかります。アメリカは、州ごとにある程度の独立性が保持されているとはいえ、あくまでワシントンDCを首都としたひとつの国家です。そしてアメリカと同じ北米文化圏に属する国はカナダくらいしかありません。そんなアメリカが多様性と自由競争を確保するためには、政府の力を制限し、個人の力を大きくするしかないのです。ヨーロッパ型の大きな政府を導入したアメリカなど、中国の中央集権帝国と何ら変わりません。

アメリカとヨーロッパは、政治志向的に正反対の方向を向いているように見えながら、実はそれぞれ違う形で、多様性と自由競争を確保しているのです。

では日本はどうか?日本は、トインビーやハンチントンによれば、独立したひとつの文明に区分されますが、残念ながら日本文明は、文明として刷新発展していくためのエンジン=多様性と自由競争を欠いています。イノベーションは外部(海外)に委託し、それをカイゼンすることに特化した奇矯な文明、寄生文明です。

寄生文明だろうと何だろうと、明治維新から1990年代まで、日本文明はほんとうによく健闘してきました。しかしもはや外の世界にはお手本とすべきイノベーションはなく、自分で見つけるしかありません。アメリカのように個人に力を与えるか、ヨーロッパのように分身するか、どちらも嫌なら文明の看板を外して、どこかにお世話になるしかありません。

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2011年01月02日

迫り来る2つのバブル崩壊

GCP比200%を超える政府債務を支える国債バブルは、一節には2012年にはじけるなどと言われています。団塊世代が65歳になって完全リタイヤし、貯蓄と経常黒字が急激に減り始めると見られているからです。

政府の自転車操業が行き詰まると、政府から借金を返済してもらえない金融機関が破綻し、日本経済は崩壊します。だから政府は、とんでもない増税&公共サービスの縮小か、カネを刷りまくってインフレを発生させて借金を目減りさせるしかありません。どちらにしても国民から財産をむしりとることには変りなく、国民は塗炭の苦しみを味わうことになります。

ところで2012年に弾けそうなバブルは、もうひとつあります。それは、中国の不動産バブルです。中国の不動産バブルの異常さについては、1年ほど前からあちこちで囁かれていますが、不動産投資のGDP比はすでに10%を超えています。サブプライムショック前のアメリカは6%に届かず、あの激烈な日本の不動産バブルでさえ絶頂時でも9%未満でしたから、これをバブルでないと主張する方に無理があります。

そんな中国の不動産バブルが、怪しい雰囲気を漂わせ始めています。というのも、2010年の後半くらいから、バブルは収まってきた、という報告をよく見かけるようになってきたからです。ウォール・ストリート・ジャーナル日本語版は、12月29日付で中国の土地バブルについての記事「中国の不動産狂想曲」をアップしましたが、記事の書き出しはこうです。

記者は先週、5年3カ月前に購入した北京のマンション物件を、取得時の2.5倍超の価格で売却した。


経済紙の社説編集員が売り時と判断し、行動までしているわけです。もちろん、中国金融当局の巧みなコントロールにより、無事軟着陸にこぎつけたのならまことに結構なことなのですが、バブルというのは一気にはじけるのではなく、じわじわと進行するので、見分けはつきません。

日本の場合は、1990年に一部で地価が下がり始め、92年に一斉に下降しました。兆候が出てから本格的な崩壊までおよそ2年。その間さんざん、そのうち持ち直すので心配無用と言われていたものです。2006年にアメリカの不動産が値崩れし始めたとき、証券市場は相変わらず絶好調で、恐慌入りしたのはその2年後のことでした。1929年の世界恐慌も同じで、不動産はすでに1926年に下降に転じていました。もし中国の不動産高騰がバブルであり、2010年に下落を始めたとするのであれば、2012年頃にドカンと来るという見方は、決して突飛とは言えません。

どちらかひとつのバブル崩壊なら、いろいろ言われているシナリオもあります。しかし2つ同時に起きたらどうなるのか?しかも日本と中国の経済は抜き差しならない関係ですから、どちらかが破裂すると、玉突きのようにもう一方も破裂する危険性は十分です。2つの波がお互いを増幅して被害は拡大するのか、あるいは2つの波が干渉しあって消波効果を生むのか、見当もつきません。

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2010年01月31日

ガンジーと鳩山首相

マハトマ・ガンジーの「7つの社会的大罪」を軸として語られた鳩山首相の施政方針演説は、「労働なき富」という大きなブーメランを投げてウケを取りました。

ガンジーという人は矛盾に満ちた人で、まわりには貞節を説きながら自分は女にだらしなく、西洋医学を否定して妻に薬を与えず死なせておきながら自分は薬を服用し、またトレードマークの半裸姿も、「あの男の貧乏はお金のかかる貧乏だ」と揶揄されたように演出にすぎず、実は富豪のパトロンを従えていました。いわば彼はブーメラン投げの常習犯で、ただしターンしてきたブーメランをことごとくキャッチしていた豪傑なわけで、鳩山首相の共鳴する心情はよくわかります。

それはともかく、施政方針演説の全文を読んでいて奇妙なことに気づきました。

政権発足当初は、鳩山外交の柱といえば「東アジア共同体」でした。しかし今回の演説では、明らかにトーンダウンしているのです。

その大きな理由は、もちろんアメリカへの配慮です。しかし演説の中で首相は、もうひとつ別の国に格別な配慮をしています。去年10月の所信表明演説では完全に無視されていたその国は、ガンジーの国、インドです。

演説でも触れているように、鳩山首相は去年の暮れ、12月27日から29日というきついスケジュールでインドを訪問しました。インド側からの強いラブコールにより実現し、経済のみならず軍事分野での協力まで討議されて、彼の地では「インド外交の勝利」と大々的に謳われた訪問でした。

中国とライバル関係にあるインドからすれば、日中同盟は大脅威です。だからインドは懸命に鳩山首相にアピールし、デートに誘い出すことに成功し、そしてどうやらハートをキャッチすることに成功したようです。演説の軸にガンジーをすえたり、インド訪問を取り上げたり、東アジアではなく、アジアという言葉を多用したりするのは、明らかにインドに対するオーケーサインです。

アメリカは別格として、経済はもちろん軍事に至るまでインドと特別な関係を持ちつつ、中国と同盟するのは不可能です。どうやら鳩山外交の柱である東アジア共同体の建設は、政権発足4ヶ月にして、早々に潰えたようです。

首相の敬愛するガンジーは偉人ですが、別に神様ではありません。その偉大さは、混沌するインドをまとめた「グレート・リーダー」である点にありました。だからいかに人間として不完全であろうと、彼の偉大さは揺らがないのです。

Gandhi knew what he was doing. Does our prime minister know what he is doing?

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