「わが闘争」のマンガ版が売れているようです。
売れる「わが闘争」漫画版 苦言も「歴史資料」の声も(朝日)今あの本を読んでなにが面白いのかわかりませんが、ただあの本を読んで、ヒトラーの中に正義を見つけて勘違いしてしまう人がでてしまわないかと少し心配です。
いや、彼は正しいのです。とんでもなく正義の人です。はっきり言って100年に1人のレベルです。彼ほど国家と国民に無私の奉公を誓い、それを実践した政治家はそうはいません。しかしそれでも彼は世界に大厄災をもたらしたわけで、ヒトラーに学ぶべきことはそこにあるのです。
先入観を持たずに見れば、ヒトラーの主張は、正義と正論に溢れています。ユダヤ人差別はおかしいですが(第一次大戦後のハイパーインフレーションの中、ユダヤ系金融資本家ばかりが私腹を肥やした時代背景を考えれば、それすらある程度仕方ない部分もある)、それさえ除けば、彼の主張は今でも十分に通用します。要するに彼は、今の言葉に翻訳すれば、こう主張していたわけです。
「社会の伝統と安定した暮らしを破壊し、マネーゲーマーばかりを肥え太らせる冷酷なグローバル資本主義と決別し、文化と伝統を大切にする、公平で血の通った社会を実現しよう!」
当時のドイツの民衆は決して洗脳されていたわけではなく、そういう彼の理想に共感し、彼に希望を託したのです。そして彼は理想に向けてぶれることなく邁進し、ある時期確かに、ユートピアの実現を人々に実感させたのです。アメリカが長引く不況に苦しむのを尻目に、失業者は消え、底辺の労働者の暮らしは目に見えて良くなりました。
しかし、強引な理想の推進は現実との間に摩擦を起こしていました。その摩擦の現れこそが、強制収容所であり、破産寸前の国庫であり、戦争だったわけです。
彼は血に飢えた極悪人ではありません。正義の人です。しかし彼の訴えた正義と、彼のもたらした厄災は、同じコインの裏表なのです。
ところで、ヒトラーが正義を志すようになった動機に、もうひとりの正義の人がいます。アメリカの大統領、ウッドロー・ウィルソンです。理想主義者として知られるウィルソンは、第一次大戦末期に、正義と人道に基づいた平和な戦後体制を提案する「14カ条の平和原則」を発表したのですが、ヒトラーは後々までウィルソンを憎んでいました。
なぜ憎んでいたかというと、第一次大戦時のドイツは、寛大で公正な戦後処理を訴える14カ条を信じて降伏し、完ぺきなまでに裏切られたからです。ヒトラーは、日本の真珠湾攻撃後になされた対米宣戦の演説でも、アメリカの悪の象徴として、ルーズベルトとならんでウィルソンをあげました。
ウィルソンの名は、歴史に類を見ない低劣な裏切りの代名詞として語り継がれるだろう。その結果、敗戦国はもとより、戦勝国も大きな被害を受けた。あの約束破りこそ、ベルサイユ条約をもたらし、国々を分裂させ、文化を破壊し、そして経済を崩壊させた原因である。今日我々は、ウィルソンの背後にいた金融家たちの存在を知っている。彼らはこの無能な学者を操り、自らの懐を肥やすためにアメリカを参戦に導いた。かつてドイツ人はこの男を信じ、その信義の代償として、政治と経済の混乱を被ったのである。
対米開戦を告げる議会演説(1941年12月11日)
ウィルソンの14カ条に対しては、日本にも特別な思いを抱いている人がいました。近衛文麿です。近衛は、ヒトラーが負傷兵として入院していた頃に、ウィルソンの理想主義を手放しに賞賛する風潮に釘を刺し、真の正義の実現を訴える論文をしたためました。
わが国またよろしくみだりにかの英米本位の平和主義に耳を貸すことなく、真実の意味における正義人道の本旨を体してその主張の貫徹につとむところあらんか。正義の勇士として人類史上とこしえにその光栄を謳われん。
英米本位の平和主義を排す(1918年11月)
近衛は、ウィルソンの人道主義を高く評価していましたが、その反面、英米ばかりに都合の良い不十分さを感じていました。結局近衛の危惧していた通り、日本の求める自由貿易や人種差別撤廃の願いは聞き入れられず、期待を裏切られた日本は、近衛の主張する真の正義の実現を夢見るようになります。
ウィルソンという人は決して、金融資本家の手先でも、厚顔な偽善者でもありません。彼ほど熱心に正義人道に基づく政治を追求し、それを声高に訴えた政治指導者は、それ以前にはいませんでした。そしてウィルソンの正義は、世界を虜にしました。ただ彼の理想はあまりに実現性に乏しく、美しい理想は、厳しい現実の前にことごとく潰えたのです。
ぼくはここに、20世紀の悲劇の種を見ます。正義という病の種です。
19世紀までの世界は、ビスマルクに代表されるように、政治といえばレアルポリティークでした。リンカーンの奴隷解放宣言は正義のためというよりも政治的判断からなされたものであり、日本の明治維新も現実主義に貫かれていました。政治家というのは、国をうまく舵取りしてなんぼのもんであり、無能な理想家などただの穀潰しでした。
しかしウィルソンという人は、実現性度外視でただただ高い理想を掲げることにより世界を酔わせ、評価されたのです。会社経営者の質が、経営能力よりも道徳性で評価されるようなもので、これは大変な価値転換です。そしてウィルソンに触発された世界は、政治における正義を、重要視するようになりました。
近衛文麿は、ウィルソンの理想を疑いの目で見ていましたが、それは実現不可能な理想だからではなく、真の正義ではないという理由からでした。ヒトラーがウィルソンを非難する理由も同じで、正義の不在を責めています。とんだ正義合戦です。互いが互いに正義を期待し、正義の純度を競い、正義でないものは罪人として唾棄する。そこでは、かつてのステーツマンに求められていた、かけひきの妙や妥協の出る幕はありません。そしてそうしたサイクルを始めたのは、正義の人ウィルソンでした。
結局正義合戦は力によるアメリカの勝利で終わり、その後の冷戦下では、東西陣営はたがいに正義を主張していたものの、その内部では正義合戦は起こりえず、また冷戦終結後しばらくは、勝利者であるアメリカの正義を疑う余地はなく、その下でかけひきと妥協のステーツマンシップが復活していました。しかしアメリカの力が衰えてきてからは、再び正義合戦が頭をもたげ始めています。
言葉ばかり美しいオバマの「チェンジ」、誇らしげに正義を旗印にする「白い鳩」、近衛ばりの正義を熱く語る「黒い鳩」、いずれの場合も、実務家としての能力は二の次で、理想家としての姿をアピールし、世間もそれを不思議に思いません。
現代はまだ、ウィルソンに始まる正義時代の延長線上にあります。今起きているのは果たして正義時代の終結前に勢いを増した炎なのか、それとも本格的な正義時代の復活の兆しなのか、後者でないことを願います。